唐草銀河

「遍愛日記」
3月17日

3月17日 (6)

   ただし、これからの彼の人生を考えると、そうは言えないなあとも、薄らぼんやり思うだけの余裕があった。なにしろ、借金がある。自分が作ったわけでもないのにそれを背負っちゃおうというのだから、これは世に言う純愛だろう。
 私は冷酷な人間ではないつもりだ。それに、今までの経験では、泣き叫んでも一度切れた縁が結びなおされることがないっていうことくらいは知っている。
 公平を期して白状すれば、先月末、彼が会いたいというときに私がデートを蹴ったことも何回か、あった。タイミングが悪かったとしか言いようがない。話があるとでも言われれば、そのうち一回をのぞけば断らなかった。なんとなく、様子がおかしいとは思っていたはずなのだ。今ならわかる。絵のことに夢中で、彼の気持ちの変化に気づきたくなくて自分に目隠ししていたってこと。
 だからというわけではないけれど、心からの応援の気持ちで彼の話しを黙って聞いた。彼にも、聞いてくれるひとが必要だ。だって、あのご両親がそれをすんなり許すとは到底思えない。彼の実家が創立三百有余年の大手呉服問屋とはいえその実情は厳しく赤字決算の連続だ。どうせ次男に再婚してもらうなら、優良会社の社長令嬢のほうがいいだろう。
 まあでも、しょうがない。
 好きなんだから。
 そして今。
 今度の私の長いながい無言は、ミズキさんにはよほど堪えたらしい。薄めの、ときによってはいくらか酷薄に見える唇がきつく結ばれていた。心なしか、頬が蒼褪めている。
 彼を置いてけぼりにして自分の境遇に浸るという愚を犯す、つまりは彼を無視しきってしまったことをどうやって謝ろうかと考えて、なにも言わないという方法を選んだ。不誠実かもしれないけれど、言えば、私はなにを考えていたのか説明しないとならなくなりそうだ。やはり、本人の前で言えなかったことを他人に対して口にすべきとは思えない。それは、最低限の礼儀のような気がする。
 気がつくと、薬缶のお湯が沸いていた。かたかたと小刻みに揺れ、白い蒸気が吐き出されていた。その間、じっと動かないで自分を見おろしていてくれたことに驚いた。
「お湯」
 目の前に立ちはだかられていたので、そう言ってみた。弾かれたように、彼はコンロへと身体を向けた。それから火を弱めただけで、くるりと身を翻す。
「ポット、浅倉の部屋だ」
 とってくるよ、と言い残して部屋を出た。
 私はその背中を見つめ、あわただしい挙措が彼に似合わないことをしみじみと思う。これが浅倉くんなら、そそっかしくてもあわてんぼうでも気にならない。けれどミズキさんは、どんなに些細なことも疎かにしないように躾けられてきている。
 お盆の上に茶筒ときゅうすを置いた。なにか、お菓子を買ってくるべきだったな。手土産はオフィスに置いてきてしまった。
 それにしても。
 なにか、どこがどうというわけじゃないけれど、今日は、ミズキさんらしくない感じがした。まあ、婚約を破棄された女に泣きつかれれば多少なりとも自分のテンポも崩されるものかもしれない。それに。
 台所は、彼の鬼門らしい。
 勝手にそう思いながら、頬にかかる髪を耳にかける。さっき触れていった手がひどく遠慮がちだったことに、ひとりで思い出し笑いをした。

 二階からおりてきた彼は向かい合うのではなくきちんと正座して九十度の角度で横に陣取った。コタツの卓上には、小粒の蜜柑が山と積まれた籠が置いてある。もうだいぶ暖かい三月だというのに、こたつ布団が取り払われていない。
 私はポットのお湯を茶碗に注いであたためてから急須にもどす。しばらく待って、茶碗にそそぐ。なんの変哲もない、常滑焼の急須。オシャレなものも幾らでもあるけれど、このほうが実は手になじんでいれやすい。
 御煎茶のお点前というのも習ってみたいと思いつつ、結局やらずにすませている。人生そうやって、やりたいと思いながらやらないもので埋め尽くされてしまうのかもしれない。
 たとえば結婚にしても、究極的には習い事と同じようなものか。
 と考えて、いや、それはきっと違う。というか、違っていてくれたほうがいいんじゃないか、と考え直す。
 ミズキさんは姿勢を正してお茶を飲んでいた。反りのある長い睫が伏せられていて、味わっているのだということがわかった。お茶をいれるのは好き。これだけは、疎かにしないように気をつけている。
 二煎目のお湯をちょくせつ急須に汲んだところで、ミズキさんがこちらを見た。
「浅倉とつきあうの?」
 考えてみれば、彼はこれが聞きたくてずっと言い出せなくていたのかもしれない。私は自分の都合ばかりで、慰められる立場に甘んじてきた。
「わからない」
 正直にこたえると、ミズキさんは茶碗をこちらにさしだしながら、言った。
「僕とは?」
 意味が、とれなかった。
 首をかしげると、笑って急須に流し目をくれた。いけない。蒸らしすぎたか。
 ややあわてて交互に注ぎいれると、いささか濃く出すぎたような深緑だった。でも、口に含むとこれくらいなら苦味としては充分だ。
「僕とつきあう気はない?」


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