唐草銀河

「遍愛日記」
3月25日

3月25日 (124)

   喉奥から搾り出されたような、掠れっぱなしの声をぶつけられ、私は何故か、笑いたくなる。自分の間抜けさに、幼さに、至らなさに、そして愚かさと弱さに呆れながら、ほんとうのところ、私はきっと、それをどうしても、どうやっても受け入れられないのだと。認めて引き受けていないから、こうして失敗をくりかえしているのだと、わかりたくないのだ。
 私は、このひとに、ほんとは支えられている。
 この今、浅倉くんに肩を抱かれて背中をドアに凭れかけていなければ、ずるずると小さくなってしまいそうだった。このまましゃがみこめばもうひとりでは絶対に起き上がれなさそうで、でも、今まだ私は立っていた。だから、だからこそ、いまこのときに、思っていることを言う。言うだけの想いが、私にはあるから。
「わからないんじゃなくて、わかりたくないの」
 伏せられていた顔があがる。私はそれを見ず、ただ自分のなかにある熱だけをひたすらに見つめ、
「それはあきらめることと似てて、自分の希望を手放すことと似てて、叶わないのなら生きてさえいたくないって感じるの」
 頑なな心を打ち明けると、不思議なものを見るような顔をされた。凝視する瞳には憤りもなく、哀れみもなく、ほんとに謎だと思っているようだった。
 私は乱れきった呼吸をおさめようとしてできずかるく頭をゆすり、とりあえず、ずっと気になっていたことを解決したくて口にした。
「浅倉くん、バッグ拾いたいから離して」
 彼はすぐさま屈んでそれを取って私にさしだした。なかからハンカチをだして濡れた頬をおさえ、襟元を見た。ここに涙が落ちて染みがついていないか心配だったのだ。こんなときなのに、そんなことが気になるっていうのもおかしなものだと感じていた。すごく真剣な話をしているはずなのに、どうしてか、そのことだけに集中していない。
「強いね」
 そのつぶやきが、自分へ向けられたものだとさいしょは思わなかった。
「そんな泣いてて、膝震わして、でも、オレに助けてって言わないんだ」
 自分の口許にうかぶのは、まぎれもなく嘲笑だったにちがいない。
「強くないよ。強ければ、ちゃんとできてるはずだよ。できてないからこうやって叱られてる。しかも、私はそういう浅倉くんに、助けてって言ってるよ」
 彼が、瞳をあげた。射抜くように見据えられ、ことばが喉奥で凍りかけ、それに気づいて浅倉くんは一瞬だけ視線をはずす。
「……だって、ミズキさんに許して浅倉くんにだけ認めないってことは、そういうことでしょ? ずっと、自分が選ぶことで誰かが痛い思いをするのは耐えられないって思ってきたけど、浅倉くんには我慢してって言ってるんだよね。ちがう?」
「それが、そう、なの?」
 浅倉くんの声が、震えていた。うそだろ、と続く。私の顔をみないで、首をふってる。
「おかしいだろ、それ。ふつう、そうじゃないだろ。それって」
「つまり、私はいいからミズキさんを助けてっていう感じなの」
 肩をすくめて笑うと、激昂された。
「なんでそうなるんだよっ」
 それはもう、決まっている。それだけは、わかっているのだ。浅倉くんにこれを言うつもりはなかったし、言いたくもなかった。ミズキさんのためではなく、私自身の尊厳のために口にする気はなかったのだけど、でも、たぶん、言わないと、このはなしは終わらないのだろう。
「彼が私に、自分がなにかをすごく恨んで、憎んで生きてるって、身をもって教えてくれたから」
「……な、え? そんな」
「そんなふうに思ってもみなかったけれど、そうなの。ある意味じゃ私の命の恩人だから、彼を」
 そこで、通路を歩いてくる数人の足音が意識の表層を乱暴に叩いた。私と彼が、マンションの自室の前にいると思いきり自覚させられた。女の子の甲高い笑い声に耳をすまし、それが山岸さん一家のものであると察知する。
 沙耶ちゃん、ご機嫌なみたいだな。おしゃまな女の子の興奮した早口は愛らしかったけれど、あそこの奥さんとは反りが合わないことを思い出す。ヤンママぽくて、親切だけどおしゃべりなのだ。前も、元カレと連れ立ってエレベーターで鉢合わせして、次の日に詮索するみたいに声かけられてやだったんだ。まして、こんなふうなところを見つけられた日には……。
「センパイ?」
 見おろされて、私は彼の手首をつかんだ。
「走るよ」
 むこうがこの角を曲がる前に、エレベーターホールまで突っ切ればいい。浅倉くんは文句も言わずおとなしくついてきた。ぐるりとひとまわりして、家族連れの背後に回りこむようにしてホールの前に来た。私は上のマークの表示ボタンを、押した。
「土産、おきっぱなしだけど……」
「いいよ。誰もイタズラしないでしょ」
 下を押すつもりだったと自分に言い訳して乗り込み、最上階を押す。どっちにしても、人目のあるところで話すのは避けたいから、どこかのカフェなどというわけにはいかないのだ。言い争いをしてる男女って気になるもの。私なら、絶対に耳をそばだてるか、そこから逃げ出す。
 流山の花火大会のときだけ開放される屋上へ抜ける細い非常階段のところなら、誰もひとがこない。屋根もあるし壁は高いからそう寒くもないだろう。
「屋上?」
「残念ながら、そこはのぼれない」
「ほんっとに高いとこ好きだね」
 首をすくめるようにして喉奥で笑う声にほっとした。
 気がつけば、私はまだ彼の手首を握ったままだ。細いと思っていたはずなのにぜんぜん指が回らなくて、自分の目がちゃんと現実をうつしとっていないことを恥じてうつむく。身体の印象より掌がずっと厚く、血管の浮いた甲から指先まで筋張って、繊細さと無縁に見えるほどいかにも男らしく骨っぽい。これは逃げ切れないかもしれないと、ふと感じた。
 《ダヴィデ像》のデフォルメされた、大きすぎる右手を思い出す。腕をおろし、腿に添わせて緩く丸めた拳。手ぶりとその形そのもので、人物の個性と主題の両方を矛盾なく語らせるミケランジェロの手腕にはいつも圧倒される。
 この手は、なにかを掴み取ることを知っている。
 手強い。
 自分はいったい今まで何を見ていたのだろうと思う。ううん。そうじゃない。見ないように、していたのだ。または、見ていたのに気がつかないふりをした。
 つまりは、恐れていたってこと。
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