唐草銀河

「遍愛日記」
3月25日

3月25日 (147)

   そいつは左手に持っていた紙パックをテーブルにおいて、本を差し出してきた。受け取る右手を左手でつかまれ引き寄せられた。たしかに人目はないけれど、まったく誰も通らないという場所ではない。それに、晃が来ることは間違いない。私は暴れもせず、右手につかんだままの文庫本が相手の脇でひしゃげて丸まる音を聞いた。背中に腕がまわった瞬間、すぐにはなれた。事務室のドアが開き、職員がふたり、自販機へとむかった。
 私は元通りの形を取り戻した本を見おろして、意外に丈夫なのだな、と感動していた。それと同時に、捨て台詞なら幾ら吐いてもいいから早く行けよ、と願った。正直にいえば、集中力が切れそうだった。ここがオープンスペースでなければ、すぐ隣の肉体に抗う術はない。かといって退却してもいいのかわからなかった。事務室のドアが再び閉まるあいだ、相手のゆったりした息遣いを聞かされるのは不愉快だった。
「悪かったよ」
 謝罪されたことで相手をうかがい見ようとして、やめた。今さら頭をさげられたくらいで許すほど心優しくはないけれど、これで開放されるなら万事OKだ。ところが立ち上がる気配はいっこうになく、そいつは悠々とソファの背にもたれて紙パックをとりあげて飲みはじめた。
 どういうつもりかと問いただすつもりで横をむいたとたん、甘い匂いに気をとられた。ストローをくわえるしっかりした頤が目に入り、何故か、ちっさい子のように飲むなあと感じた。相手の意識がこちらになくて、ひとりでムカついている自分が馬鹿らしくなった。
 私は仕方なく、取り戻した本の頁を捲ることに専念した。名文のはずが、思ったように頭に入らなかった。二頁も読みすすめたところでぐしゅっと濡れた音が耳をうち、パックを潰す音だと気づいて顔をあげると、そいつがそれをゴミ箱に投げるところだった。ゆるやかな弧を描いてそれが落ちるのを眺めながら、放物線って言葉どおりだなと妙に感心した。
 これでさすがに立ち去るだろうと期待した瞬間、左手をつかみあげられた。
「昨日、おれを誘ったよな」
「は?」
「こういうほうがお望みだった?」
 囁きの不穏さに身を震わせると、そいつは手の甲にゆっくりと顔を伏せた。
 反射的に手をひっこめ腰をあげていた。やめてよ、と叫びそうになった。誰が誘うか、いいかげんにしろ。
 私はバッグと本を持ってそいつの前から立ち去った。逃げる背中を追う視線を感じたけれど睨み返す余裕はなかった。階段に足をかけた時点で泣きそうになり襲いきた羞恥と屈辱感に苛まれ、隙を見せた自分を切り刻んで洗い流したくなった。
 あんなこと、やられるほうも恥ずかしいけど、やるほうも絶対に恥ずかしいはずだ。そこまで酒井晃が嫌いなんだ。トバッチリでこんな嫌な目に遭うなんて、酷すぎる。晃に責任取れと言いたくなったけれど、私は、自分がそう言わないと知っていた。
 その夜、すっぽかした理由を電話で問いつめられた。何でもないと言えば追求される。言いたくないとこたえた。
 それで俺が納得するとでも? ごめんなさい。謝れって言ってるんじゃないんだよ、おまえが約束破るって変だろう? 嫌なことがあって帰りたかったの。なら話し聞いてやるし帰りたいなら帰りたいって会ってから言えよ、心配するだろ。
 うんざりした。これじゃあの男の思うツボというやつだ。その間中、酒井にはやらせてるんだろ、という言葉がくりかえし襲いきた。そうだよ、やらせてあげてるんだよ、と胸のうちでつぶやいた。やりたいと思っていないと見破られ、それなのにやらせていると喝破されたように思い、惨めだった。
 生理前や排卵期にしたくなるという友達の話を聞くと羨ましくなった。私はまだそのころ生理の周期さえまともじゃなかった。晃に、まだ来ないのと驚かれ、今日そうなんだとガッカリされるたびにおどおどした。安全日なんてなかったし、デート中に突然おなかが痛いと言いだして血が下がってふらふらする私にあわをくっていた。彼は、ひ弱いなあとからかうように口にして私の頭を撫でて笑った。ほんとは我慢できたはずなのを甘えていたのは私の演技だ。
 それからも、ひとりでいるとあのウソくさい爽やかな笑顔で飲みに誘われた。もちろん断り続けた。けれど、図書館でバイトをしているらしく姿を見かけるようになった。
 資料室の書架にある事典を脚立に乗って取ろうとしていると横から手を出してきて黙って運んで、閉館時間には戻してくれた。高いところは好きだけど、辞典の類は片手で持つと手首がもげそうになるので実をいうとずいぶん助かった。図書館のせいか、話しかけられないのもほっとした。もちろん私にだけ親切にしているわけでなく、一階レファレンスのコピーサービス等、懇切丁寧に説明してよく働いていた。体格のいいのを見込まれているのか教授の後ろについて中央棟に資料を山と運ばされるのを幾度も見た。
 私が図書館に行くのはほぼ毎日のことだ。画集は何しろ大きいし、自宅の狭い勉強机と違い、窓際に陣取り広いテーブルを贅沢に使えるのも爽快だった。それで自分の席のように思っている場所が空いていないと傍目にもわかるほど落胆するのだろう。そういうときそいつは遠慮のないようすで声を押しころして笑い、べつに頼んだわけでもないのに棚から『世界美術辞典』をとってくれた。何はともあれそれを最初に席に置くことまで知られているのはさすがに気恥ずかしかった。
 もっとも、同じ本を手にとって恋に落ちる少女漫画のようなことはないものの、ロベールやラルースやオックスフォードを奪い合う瞬間というのはたしかにあった。私のお気に入りの席は全体が見渡せるうえに誰かが目当ての辞書を戻してすぐ取りに行くにも都合がよいベストポジションだったのだ。
 それから、GW中、いつもよりひとの少ない二階の貸出カウンターに両腕で抱えた矢代幸雄の『サンドロ・ボッティチェルリ』をおろしたとたん、英語学科らしい得意顔で、それは原文で読まなきゃ、と言われてむっとした。ついで、ゼミ購読の「ベアトゥス黙示録写本注解」の手引きになるかと『天使の舞いおりるところ』を借りると、横から著者名をのぞきこんできて、辻佐保子って小説家の辻邦生の奥さんだって知ってる、と問われた。常識だよとこたえると、常識なんだと肩をすくめた。カウンター横で、そんなどうでもいい話をするようになっていた。
 たまに、レファレンスの影でものすごく大きな欠伸をして私を笑わせた。春眠というには五月も半ばだった。頼んでいた英語文献を受け取りながら見ていたことを告げると、夜中もバイトしてるんだよ、と目をこすった。六本木で黒服をしているハンサムな男友達が、その顔がだいなしになるほど寝惚けているのを思い出した。何してるのと尋ねていいものかわからなくて見つめ返すと、銀座のクラブのオネエサン送迎してる、とニヤリと笑った。それって自慢なのかなあと首をかしげながら、やっぱり綺麗、と訊いてみた。父の話では、座るだけで幾らだということがわかるのみで、そこにいる女性について問うのは遠慮があった。彼は、さあどうだろうな、と肩を揺らした。余裕ぶって聞こえた。

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