唐草銀河

「遍愛日記」
3月25日

3月25日 (149)

   そのとき、頭上で足音がした。灰色のスーツに濃い緑のエプロンをした例のマダムが階段をおりてきて、私たちを横目にして出口へとむかった。あからさまな職務怠慢のサボタージュを見咎められたというより、ただただ間抜けだと思われたようだ。バイト君、こんな人目に立つところで何やってるの、という呆れ気味の、それでいて十分に好奇心に満ちた笑みがブラウンベージュの口許に浮かんでいるのを見逃さなかった。軽い靴音が遠ざかるのを耳にしながら、あの絵の床は大理石なのだろうか、とリノリウムの滑りやすさを思った。
 どうやってこの場から逃げ出そうと考えるのも億劫でただうつむいていると、苦々しい舌打ちが聞こえて、つづいて呻くような吐息をつかれた。
 おれはそんなことするほど暇じゃないよ、第一志望の内定はまだで前期のゼミレポートだってA取れなさそうだし。
 それから笑って、バイトもしないとならないし、とつけたして時計を見た。閉館時間まであと三十分ないから資料室で待ってて。
 誰もが事典を持ち出し資料を山と広げているテーブルで、私は卒論に直接関係ないのにたわむれに取り寄せてもらった英語文献のコピーに目を落とした。
 《春》を、そこに描かれた花の意味と西洋占星術と錬金術、そしてメディチ家との関係で読み解くという試みだ。ボッティチェルリの若きパトロンであるロレンツォ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチとその妻セミラミデのための祝婚画。セミラミデは、画家の美神でありながら早逝した美女シモネッタの姪にあたる。あの画面いっぱいに咲き乱れる花々はみな、婚姻や愛を意味するものだそうだ。衒学的で凝り性と、オタク気質溢れるサンドロのことだから花言葉にこだわるくらいことは充分に有り得ると楽しみにしていたはずが、自分の鼓動と喉の狭まりを意識しすぎて辞書をひらいて読むほど夢中になれなかった。
 行くよ。
 手を引かれ、重いカバンを片手で持ち上げられてあわててコピーを胸に抱いた。まだ、閉館を告げる音楽が頭の後ろで鳴っていた。
 玄関を出てすぐ、肩に手を回してきた。
 うちに来ない?
 家と言われて顔をあげた。もう八時をまわっていた。目が合うと、父親は午前様だし母親いないから、と返ってきた。いないというのがどういう意味なのか判じかね、尋ねていいものか思案する頬にこたえが触れた。離婚家庭ってやつ。
 欠損家族であることを知らされて、私はたしかに動揺した。二親がいることが必ずしも幸福の条件ではないし、それをどうこう評して感情を揺すぶられるようなことではないと思っていた。無用な哀れみやゴシップ的な感情はいやらしいと切り捨て、他人の境遇を自分のものさしではかるのは驕り高ぶりだと戒めてきた。相手から返答を求められなければ、ただ事実として聞き流すべきことだというのに、それがどういう意味をもつのか考えようとする自分の心の揺れに驚いた。このタイミングでどんな反応を求められているのかわからなかったし、就職に不利だったりするのだろうかなどと想像し、そもそもそんなことを考える自分がとても下卑た人間に感じて恥ずかしかった。
 けれど相手は何も気にしていなかったようで、ホテルのほうがいいかな、今から家のひと誤魔化して泊まれる? と尋ねてきた。泊まるなんてとんでもないし、バイトがあるとこたえると、バイトしてるの、と素っ頓狂な声をあげた。なんでそんなに驚くのかわからなかった。
 そんなの全くしたことないお嬢さんかと思った。そうつぶやかれて、お嬢さんなわけないじゃない、奨学金もらってるんだからとため息をつくと、まじまじと見おろされた。まわりには大学教授の娘や上場企業の取締役の息子、自営業の家の子供というお金持ちのひとたちばかりだったけれど、私は違った。えらいね、と一言かえってきて、親戚のおじさんみたいなことを言うなあと思いそのまま告げると、だね、と軽く笑った。
 それから、なんのバイト、終わるの何時と聞くので、個人の塾教師とこたえて拘束時間と場所を言うと彼は時計を見て眉をしかめた。サボれよと言われるかと思ったのに、そしたらさっさと帰ろうと決めていたのに、彼は私の耳に囁いた。時間まで一緒にいたい。ちゃんと間に合うように送るからついてきて。
 雨が、降りだしていた。
 取り上げられたバッグのなかには折り畳み傘が入っていたけれど、濡れるのを避けるように小走りになって中央棟にむかった。私はメタルカラーの華奢な踵のサンダルに気をとられ、水溜りを避けようと身体をひいた。彼は振り返ってすぐに腕をとり、今度は足許に注意して大股に歩いた。生白い甲の先端で、足の爪に塗ったフューシャピンクがアスファルトのうえで血のように鮮やかだった。
 エレベーターでは誰とも鉢合わせかった。彼は大ホールがあるだけの最上階を押した。握られた掌に汗の感触があり、棒立ちの肢体を見あげた。彼は私を見なかった。ただ握られた手に力がこもり、うなだれて太い息を吐いた。
 箱をおりて手をつないだまま女子トイレに入り、彼はふたりの鞄を手洗いの上に投げおいた。それから私が胸に抱えていたコピー用紙の束に気がついてとりあげた。悪い、濡らしちゃったな、と謝られた。端が少しだけ波打ってしまっていた。私は黙って首をふり、それを取り戻した。ハンカチで拭こうとして彼が気にするかとやめて、バッグのなかからクリアファイルを出しておさめた。
 ふと顔をあげると鏡にうつる自分と目があった。あわてて視線をそらし、頭を巡らせた。
 明かりの無いそこはぬめぬめと光る純白の四角いタイルに覆い尽くされた展覧会場のようで、排泄行為の場所にはとうてい思えないほど異様に見えた。誰も使用している様子はなく、不潔だとも感じなかったけれど、おトイレに期待するひそかな安堵、あの居心地のよさや落ち着きとも無縁だった。
 気がつくと、三つ並んだ個室と掃除用具入れのあいだの窓際の横の壁に背を押しつけられていた。私は相手の顔を見あげるのではなく、瞳を窓へとやった。今は、目が合うのがこわかった。
 いつのまにか外は暗くなり、ガラスに打ちつける雨音はどんどん強まっていた。遠くの雲間に光の筋がすばやく走り消えるのが見えた。聞こえない雷鳴に耳をすますように、私は男の息遣いに瞼を伏せた。いくども角度を変えて唇があわさった。


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