唐草銀河

「遍愛日記」
3月22日

3月22日 (21)

   間髪入れず? 少しは間をとろうよ、ねえ。
 ふう……。
 だから、イヤなんだよ。ミズキさんの顔を思い出す。あの、薄い唇を噛みしめて、表情をとりつくろうとする顔を。
 半分になったジョッキ。テーブルの木目。陶器でできた桜の箸置き。膝のうえに置いた焦げ茶色のナプキン。自分の視線が定まっていないことに呆れていた。やだやだ。
「センパイ?」
 のぞきこまれそうになって身体をひいた。その瞬間、女物かと思われるような甘ったるいトワレが香る。この落差、微妙なラインだ。うっかりすると親しみのある分、距離が曖昧になる。誰だこれを選んだのは。浅倉くんじゃないだろうことは予想がついた。ミズキさんのお友達というのは、きっとほんとに曲者だ。
「少し、考えさせて」
 言下に断るべきだと思っていたはずなのにいったん保留にしたのは、気力のなさだった。ここで断ったらこの場をどうすればいいのかわからない。ん、つまりは断られるとはちっとも思われてないってことか? だったら席を立つ覚悟で今からでも言うべきか。
 逡巡する私の横で彼が何か言いかけて、けっきょくは先ほどの勢いとは違った従順さで、わかりました、とうなずいた。たぶん、少しってどのくらいと聞きたかったのだろうと思うけど、私だってわからない。そんなわけでとりあえず、残りのビールを干すことにした。もっとちゃんと味わって飲みたかったような気もした。
「ねえ、ミズキさんがゲイじゃないって、それ、こないだ再会したっていう学生時代のカノジョのことでしょ?」
「彼女、いたんすか?」
 箸を止めて眼をむかれると、こっちが驚く。どうやら余計なことを言ってしまったみたいだ。今さら否定もできず、かといってこれ以上なにも説明できなかった。
 どう話を続けたらいいかと考えていると、横で何がおかしいのか、うつむいて笑われた。
「センパイ、本人のいないとこで陰口みたいな感じになるの、好きじゃなかったですね」
 それを聞いてほっとした。
「女の人でそういうの、珍しくないですか」
「性別は関係ないような気がするけど?」
「愚痴らないっつうか」
 黙って、運ばれてきたばかりの日本酒を煽る。あら、するする入っていくじゃないの。
「そういうとこ、マジで尊敬してるんすよ」
「それは、かっこつけてるだけ。悪い言葉は悪いものを運んでくる気がするし、本人の前で言えないことを陰で口にするって、なんだか一方的で卑怯な気がするんだよね」
「来須とよく話したんだけど、センパイってとにかく男前だって。口先だけじゃないっつうかさ。キャンプ場でとぐろ巻いた青大将退治するし、バンガロー覗きにきた酔っ払いのオヤジ、後輩の女の子たち背後に庇って追い払うしで、真っ先にキャアって言って泣き出しそうなのに絶対後ろみせないよねって」
「それはべつに、私がいちばん年長だったし、ほんとに差し迫った身の危険はないって判断できたからで」
「オレ、蛇だったらすぐもう逃げる」
「苦手なの?」
「あれ、足ナイんすよ?」
 足があったらトカゲだよ。怖気をふるっているので遠慮なく笑っていると、彼がジョッキを持ち上げたまま話を変えた。
「来須、ほんとに呆れるほどセンパイにひっついてましたよね」
 アンタにだけは言われたくないって叱られそうだけど、と付け足されてしまった。実は、同じことを思っていたのだ。
 大学構内のあちらこちらで、後ろからよく声をかけられた。私は当時三年生で、それはハードな美術史ゼミに所属していた。そのせいで画集という巨大な主要参考文献はもちろん、仏和と英和の辞書の入った旅行鞄を肩に背負ってよろよろ歩いていたので目立つんだろうなあ、と思っていた。でも先日、来須ちゃんが白状した。だってアサクラ、先輩の講義のコマ把握してましたもん。あれ、今思うとストーカーですよね。
 それは私が自分の履修講義を覚えられなくて施設管理局室のホワイトボードの横にコピーを張っておいたせいだ。センパイって記憶力いいんだか悪いんだか、と首をかしげられた。たぶん、そんなに悪くはないと思う。覚える気がなかったのだ。
 ただ、水曜の昼、学園祭実行委員の定例会議の日には、中央棟から来る私を中庭のベンチに座って待っていたのは気づいてた。
 私はたまに、違う道を通って文化棟に行った。おかしな言い分だけど、待ち合わせをしているわけじゃない。それで、ちょっと慌てたようすでアサクラ君が施設管理局室に入ってきて私を見つけたとき、すこし胸が痛んだ。でも彼はとくに気にするふうでなく、声をかけてきもしなかった。
 ふたりだけで買い出しをしたりランチをしたりカラオケに行ったりすることはどうとも思わなかった。私はあの頃、浅倉くんのいる軽音楽部の部長の酒井晃とつきあっていたけれど、もしも彼に何か言われても、後輩だもの、と一笑できた。
 理由もなく、とくに約束をしたわけでもないのに一緒にいるというのが、気になったのだと思う。たった二、三分、ただ中庭を抜けてカフェテラスの前を通り文化棟の階段をあがる、それだけの時間なのに、それでべつに特にどうという話をするわけでもなく、ううん、話さえろくにしなかったのに、だからこそきっと、どうしたらいいのかわからなくなっていた。
「ヘンなこと言うみたいだけど、オレ、なんでセンパイがあんなに一生懸命、文句言われたりしながら学園祭の施設管理の仕事してるのかよくわかんなかったんだよね。やる意味はちゃんと理解できたんだけど、なんで、センパイみたいな人がそれをやるのかがわかんなかったっつうか……」
 首をかしげると、彼は小さく笑った。
「来須がさ、センパイのお父さんに会ったあと、けっきょく恵まれてるから他の人にも優しくなれるんじゃないかって言ったんだけど、オレ、そういうのは偽善で、センパイはそれとは違うって思ってて……。オレから言わせるとずるいんだけど、センパイには、偽善だけどそれがどうしたって先に言えちゃう厄介なとこがあって」
 彼はそこで、オレ、何が言いたいんだろ、と考え込んだ。しょうがないので手助けではなく、話をずらすことにした。
「来須ちゃんが父のファンだったのは知ってるけど、それはね、彼女が美人で頭のいい女の子でまさしく父のタイプだから。ただのスケベ親父なの」
 すけべオヤジって、と浅倉くんがうろたえた。
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