唐草銀河

「遍愛日記」
3月22日

3月22日 (32)

   こうして、アサクラ君とさえ始められるのかと、思った。
 キスが上手だろうと噂されていた。女同士の遠慮のない会話で、浮気するならアサクラ君がいちばん後腐れなくて楽しそうと無責任に評され、三ヶ月もたないと来須ちゃんに罵られ、修羅場になることもなく次から次へと違うひとと付き合い――じゃあ自分は、私は、どんなふうだったんだろう。私はじゃあ、ほんとは……
「センパイ?」
 泣いているのに気がついたのは、彼の手が濡れていたから。その湿った指で頬をぬぐわれたせい。大きな目が、こちらをのぞきこんでいた。
「なんで泣いてるの」
「……やっぱり、イヤ」
「え」
「ごめん。私、いや」
 彼は口をつぐみ、それから、
「オレが無理やりキスしたから?」
「ちが」
「じゃあ、なんで」
 声が、尖っていた。いつもやさしい浅倉くんの声が苛立っていることがそもそも、私には許せないことだった。
「……怒った声、出さないで」
 彼は一瞬、目を見開いてから横をむいた。
「すみません」
 ううん、と首をふって涙をぬぐう。
 よくよく考えると、なにがそんなにイヤなのか、ましてや怖いのか、泣きたくなるのか、よくわからない。ミズキさんのことを考えると憂鬱になるのはたしかだけど、それはふたりの問題だ。私は関係ない。
 というか、そもそもどうして私はここでミズキさんの気持ちをそんなに斟酌しているのだろう。浅倉くんと結婚しないと、付き合わないと言ってしまったからっていう理由?
 けど恋愛なんて、約束が守られたためしがないものだし。結婚すると約束しながら、いや、向こうから結婚して欲しいと言いながら、言ってきた本人でその言葉を覆すのだから。
 あれ、もしかして私、恨んでる? けっこう根に持って、僻んでる? 
「センパイ、もしかして……」
「なに」
「や、なんでもないっす」
 うつむいていると、額に音をたててキスされた。
「このおでこにずっとチューしたいって思ってたんですよ」
 赤くなった私に、彼はにこりと笑った。
「グロス、オレが全部、舐めちゃいましたね」
 唇に指をあてると、耳のうえに囁きが触れた。
「ねえ、そういうの、キスしてって誘ってるみたいに見える」
「ちがうよっ」
 声をあげて否定すると、くつくつ喉をならして笑われた。
「知ってます。センパイ、そういうキャラじゃないし。ほんとは口紅ぬりなおすのメンドウだったんでしょ?」
 うわ、やだっ。むちゃくちゃ恥ずかしいことを。ばれてる。でも!
「男のひとがそういうこと言うの反則だよっ。それは絶対、ルール違反だって」
 ごめんなさいと謝られたけど、どう見てもその顔は反省してない。
 まったく、これだから姉もちの弟ってやつは。
 女の実情を知ってるのは善し悪しだなあ。といって妹持ちは優しいけどまた妙な支配欲があるし、男兄弟だと夢見がちだし、困ったものだ。
 むかっ腹のまま、さらに文句を言おうとすると真顔で口にされた。
「そういうの、つけないで」
 たしかに、手間を省いて楽をしたのは、いい年をして悪かったと思う。
「ちゃんとお化粧直ししないのは不精でゴメンナサイなひとだけど」
「飲み会とか、他の男といるときはしないで」
 それは、私の自由じゃないか? 私がどんな化粧をしようと、それは私の自由意志だ。もっといえば、女性だからきちんとしないとならないとか、不精してはみっともなく恥ずかしいっていうのだって、ほんとは変なことじゃない? それに、だいたい誰も私の顔なんて見てないって。せいぜい浅倉くんくらいだよ。
「それに、襟開きすぎ」
「これくらいふつうだよ」
 三十女がデコルテ見せずにいつ見せるのだ、とは浅倉くんには言わないけどさあ。
「でも上から見ると気になる」
 それは本当に、この世の中でキミひとりです。アナタしか、そんなところ気にしません。
 それに、胸ナイから谷間とか見えないしジャケット着てるからお辞儀しても浮かないし万が一見えても大丈夫なようにベアトップのインナーつけてるし、ちゃんと計算したうえでしてるの! とも言わないけどね。でもさ。
「三十過ぎてそういうこと、言う?」
「年は関係ないじゃん」
 浅倉くんの彼女でもないのに、という気持ちを察したのだろう。オレの好みの話でも独占欲のことでもなくて、と彼が断ったあと、
「オレが飲ませたんだけど、そんな肌染めて目潤ませてたらやばいって」
 足もと乱れるほど飲んでないよ、と言い返すのをやめた。さっきも危なっかしいと言われたな。どうやら浅倉くんにとって、私は酷く無用心なオンナならしい。失礼な。
 物心ついてからずっとシッカリさんで通ってきてるのだ。間抜けなのは認めるが、男の庇護欲そそるほどウッカリしてないよ。ほんと、どうして男ってこういうことを言うのだ。私を「弱いもの」に貶めるなと言いたい。言えないけどね。
 しかも、酔ったところにつけこむなら、ここでお説教するのは筋違いだろう。承諾もとらずキスしておいて、いったいどうしたいの?
「心配してくれるのはありがたいけど、私は子供じゃないし、それが浅倉くんの好みや独占欲とどこが違うのかよくわからない」
「だとしても、女の人は、どんな些細なことでも男から嫌な目にあわされないほうがいいよ」
 私が息をつめると、彼は真面目な声のまま続けた。
「オレの姉、知ってるよね」
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