唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 深更

3月23日 深更 (35)

   真夜中の電話というのは、なにかしら不安な、胸が痛くなるような予感にとらわれるものだ。
 さいしょの携帯電話の呼び出し音には、気がつかなかった。寝室ではなく、ダイニングで絵をかいていたからだ。二時半に、いくらなんでもそろそろ寝たほうがよかろうとベッドに腰掛けたところで、どうやら二度目の着信があった。
 三回コールで切れたものの、表示を見ないでも誰かはわかる。ミズキさんだ。着信音を変えたりしない。でも、誰から電話がかかってくるのか、メールの相手が誰なのか、外したことはない。折り返しすぐ、着信履歴を押した。呼び出し音もなく、声が聞こえた。
「姫香ちゃん、遅くにごめんね。今、自宅?」
「そうだけど、なにかあった?」
「何かないと、電話しちゃいけない?」
 一瞬の間のあと、そういう言葉が聞こえてくるのは予想外だった。いくら今、私が無職の独り暮らしでも、常識的に考えて電話をかけてくる時間ではないからこそ訊いたのだ。
 こちらの無言の意を察して、覚悟を決めたような息をつく。
「浅倉、そっちに行ってない?」
 そういう用件なら、わかる。
「十一時すぎに銀座で別れたけど……」
「無断外泊なんだよね」
 笑い声にまぎらわせ、ミズキさんがつぶやくように言った。聞き覚えのある抑揚は、声を殺して蹲って泣いていた姿を思い出させた。
 共同生活者のルールを、私はふたりのそれを知らない。この調子じゃあ、それは初めてのことなのだろう。大人の男なんだからほっとけば、という言葉はだったら禁句だ。
 それに、彼がひとりでいられないというのが本当なのだと、たった一晩だけのことで、こんな時間に電話をかけてしまうほど、ミズキさんは浅倉くんがいないとダメなんだと、胸が痛くなった。それでも、聞くべきことは聞いておかないとならない。
「携帯電話は?」
「留守電になってる」
 そこで、相手が次になんていうのかわかった。それを、言わせるのはイヤだった。
「ミズキさん、あのね」
「姫香ちゃん」
 ひ、の音が、切なかった。
 懇願するように名前を呼ばれて、私はぎゅっと目を閉じた。自分の胸が上下するのを感じながら、彼が泣くのを我慢している、その吐息の熱さを思った。
「浅倉に連絡して」
 時計を見た。二時三十六分。
 秒針の動くのを数秒だけ、見つめた。ミズキさんの息遣いに意識を集中する。
 これを言い出すのに、彼はどれだけ考えただろう。それを思うと無碍に断れなかった。それに、本当になにかあったのかもしれない。浅倉くんはいちど決めた約束はきちんと守るタイプだ。
「わかった。つながってもつながらなくても、すぐに折り返すから」
「ありがとう」
 ほとんど息だけで、彼がこたえた。私は目を閉じてその声を聞き、それじゃ、と電話を切ろうとすると、囁くような声で名前を呼ばれた。
「なに」
 できるだけ、出来るだけ優しい声が出るようにと願っていた。次の言葉が出るまでは。
「そっちに行っていい?」
 気持ちはわからないでもない。でも、とりあえずは少し、我慢しようよ。今の時間を考えて、明日の仕事もあるだろうし。
「あのね、それは浅倉くんと連絡がついてから考えようよ」
 私は小さなお姫様をあやすような気持ちで口にした。その口調の意をくんで、彼はようやく、いつもの甘やかなテノールで返してきた。
「ごめんね。嫌な役目を押しつけて」
「イヤっていうか……」
「浅倉に迫られてるんじゃないの?」
 なんとこたえれば、彼が傷つかないですむのか考えるのは傲慢なことだろうか。
 ひとの質問には正直にこたえたい。嘘つくなら墓場に持ってくつもりでしないとならないし、こたえたくないのが自分の不名誉が原因だとしても、本当なら、相手が知りたいと思うことは伝えるべきだと思っている。でも、なかなかうまくいかない。
 まして、ミズキさんのように先の先を読んで、それでもこうして口にしてきた場合には、さてどうしたらいいのか。自分の胆力を試されているという気にもなるし、どこまで相手を思いやれているのかどうか、自分自身に問いかけないとならない。
 けっきょく、思いやれるかどうかというのは究極的には想像力または観察力、洞察力以外のなんでもない。ただ真正直であればいいわけでもないし、不実で甘い言葉をいえばすむわけでもない。今、相手の望む言葉をさしだせばいいのか、相手のためになると思えることを、自信をもって告げられるのかどうか……。
「ねえ姫香ちゃん、僕はいつも、好きになっちゃだめなひとばかり好きになる。いつもそう。報われないひとばかり」
 名前を呼ぶことで、彼の言葉をとめてしまえるのかわからない。聞きたくないという拒絶だけではなく、これ以上、もう、この先を言わせるわけにはいかないと思った。でも、どうしたらいいかわからない。
「僕はだいじょうぶだよ。慣れてるから」
 吐息に流れた言葉のあとに、私は自分の呼吸の速さを聞いた。
 目の奥が、痛かった。耳の下から喉が引きつっていた。でも、ここで泣いちゃダメだ。気づかれちゃ、ダメだ。ああ、でも、ダメかもしれない。
「姫香ちゃんは優しいね」
 歌うような、なにかの呪文のような言葉だった。同情されたこと、哀れまれたことを嫌う声ではなかったものの、それまでの調子と変わっていた。
「だといいけど」
 私は優しくない。優しさというのがどういうものか、本当のところはわからない。用心して硬くなった声に、ミズキさんが笑った気がした。
「浅倉を好き?」
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