唐草銀河

「歓びの野は死の色す」
伝説

伝説 3

   そのときぼくが考えていたのは、この国の将来のことでもましてやエリスの身の安全についてでもなく、ぼくの隣に腰かけた若い娘のつけている香水のことだった。
 小国の次期領主として恥知らずであってはならないと自分を戒めなければ、その花の名前を尋ねていたことだろう。ぼくの思う南の花の薫りは、まさに彼女のまとう香のように甘くやわらかく、女性的に優美でいながら輝く太陽を浴びて健やかで、白く清楚な花の姿を思わせた。

「殿下はこの地下通路をどのくらい歩かれたのですか?」
「その地図をかけるくらいには、歩きました。ぼくは階段の上り下りはきついですが、ふつうに歩くことはできます。糸巻きを持って、夜中ひとり、眠れないときにはここを歩き回ったのですよ」

 ぼくがこの地下通路を歩き始めたのは、あの女、ヴジョー伯爵の妻だった帝国貴族の女が死んだあとのことだ。恋するひとを失った苦しみと怒りを表明することは許されず、また兄が死んで襲いきた重責に耐えることもできず、かといって自死する勇気の持ち合わせもないぼくは、眠れない夜にカンテラに灯をともして地下へとおりた。
 あの女が残した鮮やかに染められた色糸を手にし、ぼくは、この糸がぼくを死へと導いてくれるように、光沢のある絹糸に絡めとられ自分のからだが動かなくなることを夢見て、暗闇を歩いた。
 《歓びの野》に散った皇帝の甥の勇者オルフェは、地下で《死の女神》と交わって子を設けたそうだ。伝説が真実であるならば、ぼくの先祖は死者と女神の子供であり、およそ人間らしくない異形の者だ。そして、ぼくの隣にいる女性は、日の神がひとりで産んだ人間を先祖にもつ、やはり異形の者の末裔だった。
 そうした考えはなにか狂気じみた妄想としてこの胸を焦がし、ぼくから先ほどの廉恥心を奪い去ったようだ。

「白い花の香りですか?」

 口をついて出た質問に、赤い髪のむすめは零れそうに大きな双眸を瞬きさせた。それを見たぼくの戸惑いと羞恥に相手は気づき、さりげないほどのそっけなさでこたえを口にした。

「そう、白い小さな五弁の花。あたしの生まれた島じゃ、春になると橙の生る木に花が咲く」
「女戦士たちの島、ですか?」
「そうだね。でも、じっさいは男もいるよ。あたりまえだけどね」

 彼女の苦笑は、ひとびとの好奇に満ちた妄想に飽きあきし、すでにして怒ることも忘れ、韜晦じみた優美な困惑に彩られていた。それは、率直で、ときとしてあけすけにさえ見える彼女の、いかにも皇女らしく高慢な振る舞いを匂わせた。おそらくは、黄金宮殿にいたあいだ、この若く美しいむすめはそうやって周囲の関心から距離をたもっていたことだろう。
 それは、何処かしらヴジョー伯爵たるルネの、己の能力と家柄への揺るぎない自負と矜持を支えにした傍若無人なまでの天真爛漫な一人歩きを髣髴し、いくらか憎しみのまじった嫉妬と狂おしいほどの羨望をぼくに抱かせながら、あくまで親しみをかいた態度に貫かれてやさしかった。
 それゆえに、ぼくは皇女にその生い立ちを説明させようとすることをやめた。

「いちど、この地下通路でぼくはぼくと同じようにひとりで歩いている大教母とすれちがったことがあります」
「おひとりで、こんな場所を?」
「ええ。とりもなおさず昼日中、外を歩くよりよほど安全ですしね。なにしろ城と古神殿をつなぐ太い路を知っているものは公国に片手ほどしかいませんし、その他の細い道を知っているのはぼくをのぞいては大教母ひとりであったでしょうから」
「でも、じゃあ、城へ行く道じゃないなら何処へ?」
「むろん、教えてくれませんでした」 

 ぼくはそのとき大教母にまとわりつくようにして、この地下通路の不思議を問うた。彼女はあの白い顔を歪めるようにして、男には話せぬ、と断じた。それからぼくの落胆ぶりを哀れんだのか、そう遠くないうちに秘密とやらもなくなるに違いないと謎めかしのようなことをいい、そなたは自分が思うよりずっと長生きをするから心配するなと微笑んだ。
 ぼくは、死にたいのだと叫んだように思う。まさか《死の女神》の御子であるエリゼ公爵家に生まれ、自死などという恥曝しな真似はできないと思うからしないだけだと涙ながらに訴えたはずだ。
 ところが大教母は嫣然と笑い、とがった頤をそらすようにして言い添えた。

 オルフェよ、この大陸がそなたの膝下に跪くとしてもそう願うか?

 ぼくには、大教母のことばが理解できなかった。いや、ぼくは、ぼくの心の奥底に潜む卑屈なまでの野心を気取られたと感じ、呆然と、己の肉親の顔を見たにちがいない。ルネの、持てる者の鷹揚を許せず、憎みながら羨望ゆえに尊び、エリスを、女神の寵児たるのにその恩恵のないことで愛し、彼女のなにもかもを許そうとしたぼくの心弱さと惨めさを、心の臓の真ん中へ突きつけられた気がした。

 ぼくは。

 次のことばが続かないことに、大教母はごく親しい身内らしい気取りのない冷笑で遮って顔を伏せたぼくを見た。

 まあよい。いつの世も、臆病者は長生きするものぞ。そなたは天下国家と寝るのがお似合いだ。われの夫のように、妻以外の女の腹の上で死ぬる運命にはない。

 それは、ただ、ぼくの顔を上げさせるための言葉であったのかもしれないし、また、政略結婚した夫への、自尊心ゆえに誰にも吐露したことのない嫉妬であったのかもしれない。けれどぼくは、この、すこしも老いない美しいひとが、愛してもいなかった夫がよその女と寝たことで苦しんだことを知った。
 その言葉はまた、ルネの妻を奪ったぼくの罪を容赦なく暴きたてるものとも思え、恐ろしさに縮こまりそうになったとき、大教母が微笑んだ。

 案ずることはない。そなたは何処へでも行ける。そなたはその名の通り、太陽神の裔にして、女神の愛人になりしものだ。われの不安はそなたにはあてはまらぬ。

 あのとき、ぼくは自分の身を襲った不幸を、あの女が残してくれた色とりどりの糸巻きほども大事にするあまり、ぼく以外の人間のことなど忘れていた。いや、忘れたふりをしていた。それは、その後数年にわたり、あの色糸をこの通路に張り巡らすことで愛する人の不在を嘆く行為であり、その糸を指で弾くたびに息が詰まるほどの苦痛を覚えながら、実のところ、自分は生きているということの愉悦をひたすらに味わい、そしてまた、唐突にふってわいたこの小さな国の次期領主たる自分の未来を寿ぐ歓喜の歌でもあったのだ。

「殿下、引き返すよりは進みましょう」

 若いむすめの澄んだ声が耳をうち、ぼくはその声の持ち主をみた。

「印が削り取られているというのに?」
「この地図を見ても、けっきょくのところ、地上への道は閉ざされている。殿下は一度たりとも古神殿とお城以外の場所へ出たことがないのでは?」

 非難ともいうべき問いかけに、ぼくは小さく声をあげて笑った。
 そのとおり。
 ぼくはただの臆病者だ。
 いや、偏執的な、抑圧された窃視者だ。
 こんな正確な地図までつくったくせに、それを活用し、この街のすみずみを探検しようとしなかった。これさえあれば、この街を攪乱することもできただろうに、ただじっと、掌ひとつで街を握りつぶせるという想像に身を焦がし、ほのぐらい熱狂に酔っていた。
 これさえあれば、ぼくは、ルネ・ド・ヴジョー伯爵にさえ勝てるかもしれないと、そう思っていたのだ。





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