唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 深更

3月23日 深更 (47)

  「ちなみに父と母はほぼ別居状態だけど、離婚するほどの思い切りはないし、君や君のご両親の前で常識的な家庭人として振舞うくらいのことはできるだろうし、いや喜んでそうすると思うから、そこは心配しなくていいよ」
 リアクションに困り、ただうなずいた。
「僕が小さな頃、父の仕事の関係で数年くらいずつ海外にいたのは前に言ったよね。中学から築地で祖母と暮らして、高校のころには従兄弟の店で見よう見まねでDJ 始めて、まあ何となく落ち着いてあまり考えることもなく大学行って、それから後は前に話したとおり。ほんとは十代の頃に父なり母なりを殴っておいたほうがよかったのかもしれないとも思うよ」
 悔恨まじりの口調で語りながら彼は十分に艶やかな微笑をみせた。自嘲とよぶには醒めすぎていた。そう感じた私がなにも口にできなかったせいなのか、彼は吐息をついて続けた。
「自分じゃない人間になりたいって、思うことあるよね」
 どうこたえていいものかわからなかった。的を外したことを言いそうに思えた。子供のころ本気で王子様になりたかったのだと告白しても、彼に、通じないだろう。ミズキさんの現実は厳しく、そこで必死に踏みとどまるべく戦っている。そして、いちばん自分が恐ろしいと思うもの、憧れるもの、忌避すべきもの、その根源となる名前を、自分に与えてしまった。隠蔽し、地下深くに埋めてしまいたくなるものを、彼は日なたに、目の前に、絶対に目をそらせない場所に据えてしまったのだ。
 私は、私には、そういうことはできない。そんな、そんなむちゃくちゃな。
「姫香ちゃん、泣いてるの?」
 ミズキさんは瞳を大きくして、慌てたような顔だった。
「ううん……」
 泣いてはいなかった。でも、なにか、彼の気が楽になるような、または慰めになるような励ましになるような、彼をこれ以上傷つけることなく、なにか、そこまで追い詰めなくてもいいのに、そんなにまでしてしまった彼のためになるようなことを、言うだけの能力が、自分に、ない。なにか、なにか言えればいいんだけど、いっつも、いつもそう思うのに、どう言えばいいのかわからない。
「こんなの、どこにでもある話しだよ?」
 その通りかもしれない。私が過剰反応しすぎだと責められたように感じた。それを謝罪していいのかもわからなくて、膝のうえに重ねた両手を見た。
 自分のコミュニケーション能力不足に憤りたくなる。小説やドラマ、漫画でも映画でもいい、なにかモデルケースがあるはずなのに、それはでも、そのキャラクターでその場所で、同じようなシーンでも、それはやっぱり今ここの、今この、この時のことじゃない。
 私はいつも、こういうときにどうしたらいいかわからない。自分の感情にだけとらわれて、相手を思いやれていないような気がして情けない。
 昔、母親にまかり間違えば殺されそうになったという話しを聞いたことがある。彼はそれでも、学費を払って学生をさせてもらっていることにとても感謝していた。彼が、でも自分がゲイだってこととソレは関係あるって言われると腹立つくせに、自分でそう思ったりして落ち込むんだよねと漏らしたとき、私はやっぱり、何も言えなかった。いや、あのときもびっくりして泣きそうになってしまっていた。児童虐待という言葉さえ、よくは理解していなかった。
 それでも彼は母親を「おかあさん」と呼んでいた。それから、そういうこともあるよねと一人でうなずいた。私はなんだかすごく立派なように思えた。そう言っていいのかわからないままで口にしたら、べつに普通だよ、と何でもないようにこたえた。
 ふつう……そうだね、きっと、そうなのかな。みんな、色々あっても、色々抱えながらも、ふつうに、やっててるのかな。
 そう呟いてから頤をひくと、深町さんの彼氏ってどんな男、と訊いてきた。なんでと首をかたむけると、大変そうだなあと思って、と苦笑した。ぎょっとして、やっぱり今の言葉は無神経だったのかと謝ると、べつに嫌なこと言われたとは思ってないと細い首をふった。それから私の不安を見透かしたのか、ありがとう、と微笑んだ。
 今でも、あのときのアリガトウの響きは、こういう瞬間に甦りくる。それは自分の至らなさに思えた。
 ミズキさんが、ずっと黙ってうなだれていた私を気遣うようなそぶりで顔をかたむけて腰を浮かせた。それで立ち上がろうとして、でも、気がついたら足の感覚がなくなっていて、立てなかった。
 めったに、滅多に足なんて痺れないのに。こんな短時間で、ウソでしょ? 畳じゃなくて床が固い絨毯の上だから? 違う。身体が冷えてるから、だ。
 立ち上がった彼が不思議そうに、身をよじったまま固まった私を見おろした。それから、動けないこちらの状態に気がついたらしい。
「痺れちゃったの?」
 間の悪さと恥ずかしさに下をむくと、彼がうって変わった明るい声で笑ってから すぐそばにしゃがんで、こちらをうかがうように顔を向けてきた。それからまじまじと、何かを観察する目つきで口にした。
「踵、ちっちゃいねえ。触っちゃおうかな」
 両手を伸ばされて、その手を払うようにやめてと叫ぶと、満面の笑みを浮かべている。
「やめてと言われるとしたくなる」
「だめ、絶対、ダメ!」
 いざって逃げようとすると、肩をつかまれた。悲鳴のような声をあげると同時に抱き寄せられて、からだ、冷たい、と囁かれた。
「いつも、体温低いよね?」
「平熱低いの。子供のとき、予防接種うけるのにいっつもウソかいてた」
 どうやらイタズラされなさそうだと気を抜いたところで、太腿のうえに手が落ちた。
「ミズキさん!」
 裏返った怒り声に、彼は手をひっこめて指をわきわき動かしてから肩をすくめた。私が視線をはずした瞬間、その左手が靴下を履いた左足の先に伸びようとするので、手首を必死でつかんだ。
「触ったら、出てってもらうから」
 できるだけ低い声が出るように心がけ、目を見て鋭く言い放つ。


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