唐草銀河

「掌編・短編」
補陀楽の少年

補陀楽の少年 (9) ~夢の宮補遺集~

  「恋、ですか。慈愛、慈悲ではなく」
「『悲』の原意は呻きであって、苦しみに嘆き悲しみに共感することをさすのだよ。それが菩薩の役割」
 六世はそこで、顔をあげて続けた。
「けれど、祈りは、まるで絶対に手に入らぬものを恋い慕う絶望のなかのかすかな希望に似ている。ありもしない救いの時を待ち、一心不乱に身を投げ出す信者の姿には、ただひとえに『悲』を恋うるものの哀しみを感じる」
 かもしれない、とテンジンは思った。
「その祈りを糧に、菩薩は永遠の時を生きるだろう。そうしていつの世にも、菩薩の化身は在り続けねばならないのかもしれない。偉大な五世の威光を残さねばならないと考えた大摂政のためではなく、いつの世にも略奪され虐げられる弱きものたちのために」
 瞳を伏せた六世の面は、菩薩を思わせる、あの微笑をたたえていた。
 テンジンはふと、思ったことを口にした。
「サンギィエー殿下も菩薩の大いなる慈悲の心によって救われるのを待つ衆生の一人なのです。猊下は、自ら涅槃という安寧を放棄し、輪廻の時の輪に繋がれる悲しい生き物と同じ位におりて、この世のすべてが涅槃を迎えるまでここにとどまられるのです。それがどんなに遠い日のことだとしても、いつか必ず来るそのときまで」
 いつもと変わらぬ少年の声に、六世がたずねた。
「いつかそういう日がくると」
「ええ。祈りが恋だというのなら、あの麗しく優しい観世音菩薩がそれに応えないでいるわけがありませんもの」
 テンジンは澄んだ瞳のまま、はるか彼方のポタラ宮を仰いでそう返した。
 花びらが金色の雲となり、遠くの宮殿をその雲海のなかに漂わせていた。白銀の尾根を従え、晴れわたる青い空に浮かぶ宮殿は、まさしく補陀楽浄土であった。
「猊下はあそこにいるべきを、ここにおりて、街の者やわたしのような衆生のために詩をうたっておいでです。祈る心を失うことさえなければ、いつか、皆の心から苦しみは去りましょう」
 テンジンのまだ幼い声を聞きながら、頬を撫でる風を感じて六世は目を閉じた。
どうやら、テンジンは勤行に戻るつもりらしい。立ち上がり、元気よく法衣の汚れをはたき落としている。
「わたしは言い付けを守って行きますので」
「ああ、後から行くので心配しないで」
「はい」
 振り返らずに、走る。
 黄金をかきわけて進む紅の法衣は目に飛び込んでくるようだ。その鮮やかな色彩に、なによりも華麗な天空を仰ぐ。
(いつか、菩薩の白き腕は、それを信じて待つ者たちをあの麗しい浄土へ誘うことがあるのだろうか)
 見上げる空に問いかけると、なにもかも包みこみとかしていくような大気にその疑問さえ奪われていた。湿気もなく塵もない、なにもかもを克明にするどこまでも澄んだ大気は、身体を突き通すかのような光を抱いてここにある。
 瞳をうつすと、そこにまだ、テンジンの背が鮮やかに見える。青い空の下、黄金の菜の花のなか大地を踏みしめて走る少年の姿は愛しかった。風をはらむ法衣を蹴りあげる素足が健やかだ。
(もしかすると、この大地が、浄土であるのかもしれない。私を信じて慕ってくれる人々のいる、この大地こそが補陀楽浄土)
 そう思い、彼は補陀楽を走る少年の姿をいつまでも見守っていた。


 後日、大摂政は自身の予言どおり、この地に襲いきたラプサン汗に殺害された。
 六世は清軍に拉致され護送される途中、青海にて没する。民衆は六世を取り戻そうと果敢に清軍に挑み、六世は無辜の民が殺されるのに耐えきれず自ら命を絶ったのだと噂された。
 清の言葉を話せた少年テンジンは最後まで六世のそばにいただろうか――そこが、補陀楽浄土だと信じて。
                                                    
 了(2005年)



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