唐草銀河

「掌編・短編」
楽園の箱

楽園の箱 1

  神さま、この塔の聖人さま、それから天国にいるおじいちゃん、どうか僕の旅を見守ってください――

 そのとき彼は、パリでいちばん古い塔のしたに立っていたのです。
 通り過ぎるひとたちは彼にまったく無関心で、ましてやここがかつてどんな場所だったのかも知らないようでした。お祈りを終えて空を仰ぐと、すうっと二本、沖にできた波のように飛行機雲が並んでいるのが見えました。けれども、その通りで空を見あげていたのは彼ひとりだけ。彼自身そのことがおかしくて、ちょっと鼻をこすって笑いました。
 それからお気に入りの赤い帽子を頭にのせてリュックを揺すりあげ、肩にかけていた水筒をあみだになおします。いよいよ旅のはじまりの一歩を踏み出そうと、大きく深呼吸したところでした。
「ねえ、ぼくをいっしょに連れていって」
 あたりを見回しても、急ぎ足で行き過ぎていくひとたちばかりです。
「ここだよ、ここ」
 足もとに目をやると、まっしろな猫がいました。小さな猫は彼のこげ茶のトレッキングシューズのうえに前足をのせています。目は光を透かす黄金で、鼻の頭がピンク色の、身体のわりにしっぽの長くてりっぱな猫でした。
「やあ、ぼくのいうことをきいてくれるひとが、やっときたよ」
 彼は腰が抜けるくらいびっくりして、おずおずとしゃがみこみました。猫は8の字を描きながらするりするりと踝にまとわりついていいました。
「きみは海に行くんでしょ?」
 猫は、彼が胸にさげている帆立貝の首飾りがなんのしるしかも、ちゃんとわかっているようでした。それは古くからある巡礼のしるしです。昔、ここよりもずっと南、この大陸の西の果てにある海で、おじいさんといっしょに拾ったものでした。
「ぼくはお魚が大好きなんだ。だからいっしょに連れてって」
「でも、そこはとっても遠いんだ。僕だって、ちゃんとたどりつけるか心配なのに」
「だいじょうぶ。こう見えてもぼくは歩くのも泳ぐのも得意なんだ」
「泳ぐのも?」
 びっくりしてたずね返すと、子猫は鼻をならしてこたえました。
「そうだよ。なんてったってぼくは特別な猫なんだから!」
 猫があんまり偉そうなようすで胸をはるので、彼は猫のいうことを信じることにしました。街角にいすわっている野良猫というよりは、まるで王様か天使様のように振る舞う猫でしたから。
 だから彼も、いつもよりずっとちゃんとした姿勢で名乗りました。
「僕はモーリス。君は?」
 すると、猫はいったん驚いたように目をみひらいて、それからさきほどの尊大なようすからうってかわり、きゅうにうつむいて小さくなりました。
「ぼく、名前がないんだよ。ううん、ほんとうは、忘れてしまったんだ」
 モーリスは思わず息をのんで、猫を見おろしました。それじゃあ、これからいっしょに旅をするのになんて呼んだらいいのかわかりません。
「ぼくは、あのひとがつけてくれた名前を忘れてしまった……でも、ぼくはただの猫だもの、なんて呼んでくれてもかまやしないよ」
 猫は、ちっともかまやしないなんて思っているようではありませんでした。
「あのひとって?」
「それは、秘密だよ」
 猫はちいさな顔を伏せて言いました。
 秘密といわれて黙りこんだモーリスを、猫はじっと見あげました。その目は黒いリュックサックへとうつり、猫はにいっと微笑みました。なかに何がはいっているのかもよく見えるような不思議な瞳でした。
「ね、ぼくを君の箱に入れてってよ。そうすれば、ぼくは迷子にならないよ」
 それはとてもいい考えに思えました。猫はてのひらに乗るくらい小さかったので、彼のつくった箱のなかにあつらえたようにぴったりとおさまりました。うっとりと目を細めて猫がいいました。
「なんだろう、懐かしい匂いがするね」
「海の、匂いだよ」
 それは、おじいさんの船の一部だった板からつくった箱でした。なかには、もとはおじいさんのものだった宝物が入っています。だから彼は、おじいさんの好きだった日の沈む海の赤と黄金色に染めたのです。
「さあ、行こう!」
 そうして、モーリスと猫は遠い海まで巡礼の旅をはじめました。

スポンサーサイト



*Edit ▽TB[0]▽CO[0]   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)