唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 深更

3月23日 深更 (56)

   うわあ。いい、いいから! 両手を突っ張って押しのけようとしたところで微笑まれた。
「筋骨調整法を施してあげる。姫香ちゃん、肋骨、折ってるせいか胸が窮屈そうだから、できれば開いてしまおう」
 開いてってなに? 『エイリアン』の映画のごときオゾマシイ場面が思い浮かび、あわてて首をふる。
「子供っぽくてこの薄い胸、僕はけっこう好みだけど、これはすごく苦しい身体だから、大人の身体になったほうがいいよ」
 ミズキさんがいうと、なんだか妙にエロいんだけど。という私の表情を読んだのか首をかたむけて口にした。
「お風呂に入ってから、全身踏んでしまおう」
なに言ってるの? 話が見えないんですが。ミズキさんがヤル気になっているということだけは間違いなかった。勝手にお風呂場へとむかう背中にあわてて声をかける。
「ミズキさん、なんでお風呂なの?」
「死にそうに痛いから、身体を温めたほうが絶対にいいんだよね」
 後ろをついていく形になった。死にそう? 整体って痛いとは聞いてたけど。彼のためにもお風呂は入れようと思ってたからそれはいいんだけど。死にそう?
「あの、そりゃすこしは興味あるけど、でも」
 怖気て口に出すと、彼はお風呂場の前で私をみおろした。
「画家は体力勝負だから、その不健康な身体は作り変えたほうが絶対にいい」
 断固として言い渡された。彼のほうが正しい。これは反撃は無理だ。私は自分が絵描きという商品でもあると知っている。事実上、私のパトロンである彼には逆らえない。諦観にとらわれたまま、ずっと気になっていたことをきいてみた。
「ミズキさん、ひとの身体に触れないって言ってて整体できるってどういうこと?」
「それじゃ困ると思ったから、習いに行ったんだよ」
 背中でこたえられて、唖然とした。私が息をのんだのに気づいたようで、彼は片手でドアを開けながらゆっくりと振り返ってはぐらかした。
「それにね、整体じゃなくて筋骨調整法っていうんだ。浅倉を練習台にセクハラするのも味気ないしね」
「ほんとに味気ないの?」
 笑って、言えたと思う。
「浅倉は我慢ができなくて本気で蹴ってくるんだよ。まあ、彼も怪我してる身体みたいだからしょうがないね」
「怪我してるとすごく痛いってこと?」
「うん。どうやらそうらしい」
 頭のなかで、自分が骨折してる箇所を数え上げた。まずい。絶対に、まずい。
 いや、待て。そもそもなんで私が脱がないとならないのだ。お風呂に鍵もあるけど、でも、なんだか危険じゃないか?
「風呂あがりに襲ったりしないから安心していいよ」
 先に宣言されて、瞳をむける。彼はいかにも善良そうな笑顔でつけくわえた。
「するつもりなら、もうとっくにしてると思わない?」
 さようですか、とすぐにも納得できるものでもなかったけれど意味は理解できた。ここに来てからずっと、性的な雰囲気にもっていこうとしていないと言われればその通りだ。実は私もほんとのところ警戒していない。つまりは逆に、こんなに警戒心が薄れてしまっていること自体を悩んでいるのだ。
 ちっとも意識していないとしか思えない。あれだけ迫られてまだ緊張しないでいられるっていうのはいったいどういうことか。
「僕のことは、お風呂入って考えれば?」
 とうとう本人にすすめられてしまったので素直に従うことにした。どうやらこのミズキさんには逆らえないらしい。
 そして――。
 お風呂を出てからの一時間、私はひたすら咳をして鼻をたらし痰を吐いて泣き喚いた。
 いや、やめて、痛い、やっ、ひど、やだっ、う、や、もう、やめて、お願い、もう許して、おねがいだから、死んじゃう……。
 ああもう。あられもないというか、そんなセリフ、この先の人生だって決して言うもんかというみっともない言葉をいくど叫んだことか。私はスパイになれないね。拷問には絶対に耐えられないよ。 
 しまいには、ミズキさんがひとこと。 
 僕、すごく興奮した。
 雪花石膏の美肌に汗を浮かべてそんなことを口にするから、こちらは身の置き所のなさに消えてしまいたくなった。
 いったい誰ですか、こんな痛いことを考え出したのは! 
「日々、技は開発中らしいよ。僕はまだオリジナルが編み出せるほどの経験がないけど」
 ほんとは僕の場合、師匠のお墨付きで手のほうが上手なんだよね、でも変な気分になっちゃいそうだから、とつけたされた。
 私は今、彼のために用意した布団のうえに寝かされていて、もう動けないくらいの放心状態で、あんまり汗をかくことがないのに今はものすごく血行がよくなったみたいでほわあっと真綿にくるまれる心地よさにひたっていた。身体は一ミリたりとも動かしたくないのに、頭のなかはひどくクールで、今なら鈴木大拙全集や尻込みしたジョイスの小説なんかにチャレンジしてもいけそうな気分だった。
 実をいうと、私はあんまり急激に血が回りすぎたために寒気がして危うく過呼吸の発作に陥りそうになり、こんな真夜中だというのに師匠のところに電話をしたミズキさんはすごく迷惑な弟子になっていたのだった。
 その師匠のお見立てでは、やっぱり子供のときに全身を打っているせいでパニックになりやすいのではないかという。しかも、他にも骨を折っているか怪我をした箇所があるはずだからそのこと全部、思い出してもらいなさいということだったらしい。
 いくら身体の歪みを直して筋肉の凝りをほぐしても、頭でそれを理解できないとまた、身体は悪くなってしまうのだそうだ。だからたとえば、私の場合は肋骨を折ったときの状況や痛みを思い出したので、今後はそんなにひどい肋間神経痛にならないですむっていうことらしい。
「だからね、自分自身の身体のことを理解してちゃんと言葉で伝えられるかどうかで、治り具合は違ってくるんだよね」
「それってけっきょく、人間本来の賢さみたいなところで差がつくってこと?」
「まあ、そうかもね。それだけじゃなくて訓練もあるだろうけど」
 なんだ。やっぱり、賢いひとっていうのはそんなところでも有利なんだ。がっかりしたような、納得するような。
「姫香ちゃんて、頭がいいことをうらやましがるよね」


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