唐草銀河

「夢のように、おりてくるもの」
降りしきる花と見まがう夢

彼と彼女と夏の夜

   出ていけって怒鳴られたから出てきた。今夜泊めて。妻に手をあげるなんて最低。別れるわ。
 そう言った彼女の頬は白く綺麗なままに見えた。ところが、おれの恋人は茫然自失といった顔つきでその場に立ち尽くした。しかたなくおれが彼女の荷物をもって部屋へと招き入れた。彼女がサンダルを脱いでからも、このひとはあらぬほうを見ていた。
  立ち働くことを少しも厭わないひとが動けないでいるのを見過ごせない。だが今は、離婚の危機とやらを迎えているらしい彼女のほうを向かねばならない。おれとこのひとがこうして付き合うちょくせつのきっかけを作ったのも実のところ彼女で、しかもその後このひとの師匠と結婚した。浅からぬ縁がある。
 おれが全員分のコーヒーを用意して座るや否や、この家の主でもある彼が口をひらいた。
「僕は師匠に隠し事をしない。君の居場所を尋ねられたら知る限りのことはこたえる。それでもよければ」
 横顔をのぞきみたが視線は合わなかった。ふたりは互いをまっすぐに見つめあっていた。
「あたしの味方をしてくれないの?」
「そうは言ってない。君さえよければはなしを聴かせてもらいたい。けれど師匠を欺くような真似は何があろうともしない」
「それってつまり、あたしじゃなくて師匠のほうが大事ってことでしょ?」
「そういう二つに一つを選ばせるような問いかけは現実的じゃないよ。僕は師匠に嘘をつかないだけで、もし師匠が君に酷いことをしたとなれば師匠の責任を問うつもりだ」
「だから叩かれたって言ったじゃない、ウソじゃないわよ」
「うん、だから驚いてる」
 そこで一呼吸おいて、それから君にも、とつけたした。
「あたし?」
「君のほうが追いつめられてる」
「そりゃ、家を出てけって言われたし」
「そうじゃないよ。そういうことじゃなくて。君は師匠の退路を断ち面目を潰そうとしている。それはいつもの君らしくないやり方だ」
 おれも、実はそう思っていた。
 彼女はそれでもなにもいわない。このひとはふうっと小さく息を吐いて、ようやくそこでおれを見た。
「どうしたらいいか考えてる」 
 このひとがそう呟いてカップに口をつけたのと逆に、彼女はそれをおろしてうつむいた。そして、コーヒー飲むようになったのね、と囁いた。続いて、好きじゃなかったんじゃないの、と問われてもおれは慌てなかった。このひともまた落ち着いた声でこたえた。
「昔は好きじゃなかった。そう親に言えなくてね。我慢して飲んでるあいだにどんどん嫌いになった。だけど彼が隣りで飲んでるのを見てたらいつの間にかね」
 それを聞いて彼女が、いまわたし惚気られたのよね? と呆れてみせた。おれもそう思ったがあえてそこはフォローしなかった。なにをいっても後味の悪いものになりそうだったから。
 ここにきてからずっと彼女は感情を波立たせなかった。このひとはそれに気づいて何かを恐れていた。助けを求められたわけではないと悟っていた。

 その夜、彼女はおれのベッドで眠った。来客布団などなかったために女性をソファには寝かせられないとこのひとが言い張るだろうことは目に見えていて、おれ はおれで恋人のベッドにその初恋のひとを寝かせたくなかった。彼女はそういう気持ちの何もかもを察していちばん穏当な場所を選んだ。

 おれたちは夏なのをいいことに居間にならんで寝転がった。付き合いはじめの、初めての夏のようだった。

 翌日、彼女はこの家の主がいないあいだに出て行った。おれと彼女はその間ふたりだけで少しばかり言葉を交わしたが行き先はあえて聞かなかった。それが互いの為になると信じた。いずれにせよ、行き先を知られないようするにはそれしか方法がなかったのも事実だ。 
 彼女が出て行ったと知って恋人は難しい顔をしたが、おれを責めたりしなかった。ひとつ吐いたため息がおれの肌を不愉快にさすったのも束の間のことで昨夜を埋め合わせるような愛撫にかき消された。

 寝苦しい夜の始まりだった。


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