唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 午前

3月23日 午前 (61)

   絶句というのは、こういう瞬間にあるものだと悟ったよ。
 いいかげんにしてと声をあげるべきなのか、無視するべきなのか、冷静に理を説くべきなのかすら、わからない。
 正直、自分がこのひとを読みきれていないと思い知らされていた。それは、たんじゅんに恐怖に通じる。彼は私が対応に躊躇しているのを悟ってから、声音をかえて応答した。
「僕は殺すとは言ってないよ。相応の復讐は考えるけど、犯罪者になるつもりはないからね。それにまあ、相手が浅倉ならとりあえず留保するけど」
「あのね」
「僕が心変わりしたり浮気したら殺してもいいから」
 冗談をいってる顔じゃない。というより、まあ冗談じゃなくてもしょうがない。それは個人の生き方とか哲学とかいうものだろう。でも。
「ミズキさん、人間、変わるものだからそういう約束しないほうがいいんじゃない?」
 それだけははっきりさせておきたいと思った。ところが。
「姫香ちゃん、結婚っていうのはそういう変わる人間を、変わりながらもちゃんとその約束を守らせるためにある仕組みだと僕は信じてるんだけどね」
 こちらが、息をつめる番になった。
「だから、病めるときも健やかなるときもってキリスト教ではいう」
「ミズキさんてキリスト者じゃないよね?」
 知っていてたずねてしまった。たしか、越前真宗大谷派のお家で、親鸞と蓮如の書をお嫁入り道具に持ってくるような大おばあさまがいる家系だったはずだ。彼はそういう私を笑うことなく真顔でこたえてくれた。
「洗礼を受けるか考えたことはあったけど、違う。でも、イエスが結婚で両性を縛りつけた考え方には大いに賛同できる」
「そうかな。抜け道がなさすぎて、私はあんまり賢明な方法だと思ってない。あの時代のユダヤ社会では女性のための救済措置だったんだろうけど、世襲制や財産分与に問題が出る。家父長制度に風穴を開けるっていうより矛盾、じゃない?」
「財産は守りやすいよ。けっきょく一夫一婦制は、子供の父親が誰かはっきりしやすいから続けられてきたものでしょう」
 ミズキさんはそこでひとつ息をもらした。
「でも実際は子供の母親が誰かは白日のもとに明らかでも、父親はわからないっていうのが正解だと思うけど」
 そう、横顔でつけたした彼の、ほんとうに言いたいことを探ろうとしたところで、すぐさまその思考を遮られた。
「君は、浅倉の求愛だって断ったんじゃないの?」
 断ってはいないにしろ、留保した。
 私の決断力のなさを責められるいわれはない。そう思ったのが伝わったのか、彼はかるく首をふった。
「僕には、君の気持ちはわからないよ。だから自分の希望しか言わない。僕は君と結婚したい。君が僕のもので僕が君のものだって知らしめて、僕と君が一緒にいることを誰からも邪魔されないようにしたい。君にも同じように僕を求めて欲しい。僕のそばにいて、僕だけを見てほしい」
 まさに、希うという願望の連続に、聞いている私の息が切れそうになった。
 こんな私に酔狂な、と心中でつぶやいて、この方法では立ち向かえないと改める。
 酔狂だろうと悪趣味だろうと、彼にとっては紛れもなく自身の欲望なのだ。すこしは冷静になれと迫っても無駄だ。先立つ望みの前では、欲される側の事情や真実の姿は、考慮されない。泣いて欲しがる子供に、それは役に立たないとか大して美味しくないと言っても聞かないのと一緒だ。手に入れてはじめて、そんなにまでして欲しかったものかどうか判断できるのと似たようなものだ。
 このひとは、私を、取り違っている。
 これは口にしちゃいけないと戒めていたけれど、もう、私も自分が逃げることだけで精一杯だった。
「さっき否定されたけど、ミズキさんの本当に欲しいのは、妻じゃなくて、自分をほめて励まして慰めて愛してくれる母親じゃないの? 私には、ちゃんとした母性みたいなものはないよ」
 彼は苦しげに笑った。
「僕は母親と寝たいとは思わない」
「そこは比喩だから、そういうことじゃなくて」
「そういうことじゃないの? 僕は君を囲っておきたい。自分のそばに縛りつけておかないと安心できない。法的にも社会的にも、君を自分のものにしたい」
 話がずれたような気がするし、いろいろ突っ込みたいところがあったのに、私が反応したのは最後の部分だった。
「私はものじゃないから」
「君はものだよ」
 低い囁き声が落ちた。
 左手をとられて、心臓のうえにおかれた。鼓動は感じなかったものの、掌と指先は極上のシルクウールの感触を、こんなときだというのにきちんと捉えていた。
「僕もものだ。ものでしかないから、せめてこの身体に熱のある間は、自分が欲しいと思うものを手に入れて腕のなかにおいて慈しみたい。ものは所有できる。在ることを信じられるし、自分の自由にできるからね」
 自由にされてはかなわない。そう思ったのに気づいたのか、彼が私の手をはなしてから続けた。
「君を自由にできると思うほど自惚れてはいないよ。君の矜持を剥ぎ取れるほど、僕は強くない。それでも君に僕自身と、なにがしかの社会的安定を提供することはできる。それはそんなに悪い条件のものだとは思わないけど?」
 悪いどころではなく、考え得るかぎり最高の条件だ。この年になって絵描きになりたいだなんて言い出す私がいいと言い、それを全面的にサポートしてくれるのだから。それなのに私は、いらぬことを口にした。
「……結婚って魂の問題じゃないんだ」


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