唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 正午

3月23日 正午 (66)

   とくに重い荷物もなかったので、築地から八重洲まで歩くことにした。中央区役所の前、首都高速にかかる橋のあたりで風を感じるのがたまらない。視線が前後左右に開けるだけじゃなくて、足下が抜けていて軽いのがいい。下が川でなく、車がびゅんびゅん走る道路というのも、動きがあって好き。同じ理由で歩道橋も嫌いじゃないのだが、たいてい地面は平らで一直線で見渡す楽しみが少なく、赤信号なんかで止まられると一気に興がさめる。その点、ここは道路のアップダウンの高低のもつ不安定感もあるし交通量は多いしで気分が浮き立つはずなのに、今日はあまり楽しめていない。その証拠に、立ち止まらずに渡りきる。
 舌打ちする思いで柳の木を仰ぐ。こういうささいな愉しみに没頭できないのは重症だ。あまりいい状態じゃない。とにかく、私は平静な、静穏な、穏健な生活を取り戻したい。自分の自由になる時間とエネルギーは絵画にだけ振り向けたいのだ。
 気を取り直し、昨日ご馳走になった御礼に松屋の地下でパンとデザートを買ったと浅倉くんにメールを入れた。お弁当にしようかと思ったけれど、パンならそう匂いもないし面倒な片付けの必要な器が出ない。ナイフがあるのを知っているからチーズやパテを買ってバゲットでもよかったけれど、気分的に、切り分けて食べたいとは思えなかった。
 昔はよく、そうやってアサクラ君の家でブランチをした。とびきりの偏食ながら美味しいものに目がない龍村くんに舶来モノと呼ぶにふさわしい缶詰類を調達してもらい、私は大量のキャビアというのを初めて堪能した。アサクラ君の、これ、そんなに感動するほど美味いモノっすか、という乾物問屋の息子らしい正直で無遠慮な謂いに苦笑しながら、昼間っから冷えた白ワインを煽ってオリーヴを頬張るのは悪くなかった。
 出資者なので上げ膳下げ膳が当然とフローリングにでんと座ったっきりの龍村くんと違い、手際のよさをみせてあっという間にサラダやスープをつくるのが来須ちゃんで、私は私でお茶をいれるのとデザートを取り分けるしか能がなく、後片付けはたいていアサクラ君の役目だった。ごしゃごしゃの闇鍋に、自宅から送ってもらった最高級昆布をつかうのはなんだか申し訳ないような気がしたのに、みんなで食べたほうがいいっしょ、と笑っていた。
 そんな情景を思い浮かべてしまう自分にため息をつく。これは、困った。
 思い出さないでいた間はほんとに忘れていられるものなのに、いったん記憶の底から浮き上がったものは繰り返し再生され、そのたびに入り組んだ細部まで鮮明に立ちのぼらせて、しまいには隣り合う違う出来事まで連れてくる。でも、それに騙されちゃいけない。その記憶は、私自身が編集したものだ。しかも自分に都合のいいように改竄されているはずで、思い返すたびに気持ちがよくなるように設定し直されているに違いない。
 うまく気持ちを切り替えられないままに無言でのれんを押し上げると、浅倉くんがゆっくりと書類から顔をあげた。私は目を合わせないようにしながら、店内を見渡して声が出るに任せた。
「だいぶ、変わったね」
 獏がいた頃と違い、手前はほとんどアジアン和風インテリア雑貨屋さんと化していて、アロマキャンドルやタイシルクの小物入れのように単価の低いものが幅をきかせていた。もちろん奥の一段高くなった畳のうえにはあいかわらず階段箪笥や茶道具などが置いてある。ただ、そちらは前よりすっきりと整理され、今まで見たことのないカラフルな和蝋燭がしつらえられ、洒落た手拭いが乱れ箱に入れられていた。ありきたりの和風崩れとは一線を画すデザインに、昨今流行のアーティストものかと見当をつける。
「それ、けっこう人気ですよ。若手のアート作家さんのオリジナルなんですよ」
 あいかわらずチェック早いっすねえ、と浅倉くんがお店のひとモードのあとに目を細めた。私も笑えた。ほっとして、そのチラシをいただいて読まずにバッグに入れた。
「パン、好きなのとって」
 ビニール袋から缶の紅茶と缶コーヒーを出してテーブルに並べたところで、浅倉くんがパンを取り出しながら言った。
「センパイ、先に選べば?」
「だいじょうぶ。自分も食べたいのはちゃんと二個、買ってきたから」
 彼は目を丸くして、それから顔をうつむけて短く笑った。いいけどね。相手がアサクラ君だと、なんだか家にいるように素の自分になってしまう。ケーキを選ぶのにいつまでも悩んでいると、どれと迷ってるんすか、オレの半分あげますからとよく言われた。この優しさは、お姉さんの教育の賜物だろうか。うちの弟も私に先に選ばせてくれるのだ。もっとも、あとで文句を言われるのがウルサイからだと弟はこたえるかもしれない。
 彼がパンを手にとっている合間に英語が並んだ数枚のA4用紙に目を落とす。メールをプリントアウトしたもののようだ。この量の外国語を読む能力はもちろん、なにより気力がなくなった。もともと語学は苦手なのだ。
 あの頃はよくズルをして、英語の講義の前に不安なところは助けてもらっていた。すらすら訳すのでこの分ならゼミの英語文献もいけるかと投げてみると、これはオレ読めません、としかめ面をして、どうしてこれが読めてただの新聞を訳せないですかねえ、と首をかしげていた。なぜかはきっと、愛がなかったから。
「コーヒーそれでよかった? お店番してるから好きなの買ってくれば」
「や、これで」
 彼はもう、缶を開けて傾けていた。というか、見る間に飲み終わっちゃってるんだけど。
「センパイ、お茶いれてくれません? あったかい紅茶のほうが好きでしたよね」
 彼は仕切りの奥へと消えた。あとを追っていくと、バックヤードには届いたばかりという感じで封をしたままの大きなダンボールが三つも積んであった。事務所のパソコンの横には、セールのお知らせのDMが束になって置かれていた。雑然とした雰囲気は以前とかわりない。
 浅倉くんは、棚の引き出しを探る横顔を盗み見た。そこじゃなくて、と言いそうになるのをこらえると、かつて獏がここにいたことを思い出す。どうしたものか、ふいに自分が泣きそうになっているのに気がついて、あわてて背筋をしゃんとして鼻をすすった。
「センパイ?」
「紅茶、見つかった?」
「じゃなくて、なんで泣いてるんですか」
 目の前に立たれていた。
「ミズキになんかされた?」


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