唐草銀河

結婚しない男

結婚しない男 ~フィリッピーノ~

  「フィリッピーノ。お願い、抱いて欲しいの。もういいの、どうなっても」
 うわごとのようにくりかえし、僕のものを花の馨りのするそこへ導こうとするサンドラ。
「駄目だよ。それに僕はあのひとじゃない。きみの初恋のひとじゃない」
「わかってる。わかってるわ。でも、あのひとは私を好きになってくれないの。結婚してくれないんだもの。だったらもう、処女でいる必要なんてないじゃないっ。それに、あたしをこんなにしたのはあのひとじゃない。あのひとは、あたしに指一本、触れてくれないのよ」
 サンドラは泣きながら僕に縋りつく。たしかに言うことはもっともかもしれない。だからといって流されるわけにはいかないのだ。けれど、慰めが欲しいなら僕にもそれは与えられる。サンドラを寝台へと押し倒し、黒い裳裾をたくしあげ、そのもっとも昏(くら)いところへと口付ける。濡れていて、甘く、萎れかけた百合の花のような匂いがする。僕は他の女性を知らないが、ひとの身体なのに植物と似ているなんて不思議だ。髪よりひといろ濃い叢(くさむら)をくちびるで弄び、それとなく焦らすと、サンドラは僕の髪を引っ張って、意地悪しないでと涙声で訴えた。

 意地悪なのはどちらだろう。僕の理性を失くそうと煽るくせに。僕は、天罰を恐れない。けれど、ひとの謗(そし)りは怖い。恨みや嫉妬も同様に。

 すぐそばの果樹園で雲雀が鳴いている。
 サンドラがえもいわれぬ声をあげつづける。
 僕はそれを聴く。ふたつの、この世でもっとも美しい声を。僕の愛する囀りを。

 ここなら、誰もこの声を聴くものはいない。
 僕たちはごくたまにこの別荘で落ち合う。僕の絵の師匠サンドロさんの父親の別荘で。 
 僕はそこで修道女を組み敷く。
 神の花嫁を、抱いている。
 あのひとは――サンドロさんはそれを知らない。
 僕たちは兄妹だから。血を分けた、実の兄と妹だから。

 僕たちの両親は修道士と修道女だった。メディチ様が父の絵の才能を高く買い尽力してくださったおかげで還俗し結婚したけれど、僕は罪の子として生まれた。堕落の結果孕まれた「私生児」だった。
 僕は、ひとの陰口、意味深な目配せ、不埒と不道徳を罵るときのしたり顔が嫌いだ。おのれの潔白、清廉、身持ちのよさ、または臆病と卑屈と忍従に満足する怠惰をも憎んでいる。

 父の弟子だったサンドロさんは僕たちを本当の弟や妹のように可愛がってくれた。彼は世間並みの「良識」を信じないひとでもあった。僕も、そして妹のサンドラも、サンドロさんが大好きだ。じぶんを優しく受け入れてくれたひとを愛さずにいられるほど、僕たちは幸福に育たなかった。
 あのひとは、いつも笑顔で陽気なところがあるいっぽう、ものしずかで孤独を好み、一緒にいるときは親しみやすいのに離れると近寄りがたいと思われた。
 父が死んで、その一番弟子に騙されて身ぐるみ剥がれた僕たちは、サンドロさんしか頼れるひとはいなかった。あのひとはそういう僕を初めて会ったときと同じ春の日差しみたいな笑顔で迎え入れ、あれこれと面倒をみてくれた。僕は幸福だった。
 あのひとが、他の人間と快楽を分け合っているのを知るまでは。

 僕がサンドラに手を触れたのはそのときだ。
 サンドラは掛け値なしに何も知らない少女だった。大人になったら初恋のひとサンドロさんと結婚すると口にする、無垢な娘だった。その純潔を穢したのは、兄であるこの僕だ。

 僕の愛するひとは性を違えた同じ名前をして、僕の肉体と魂のそれぞれにその名を刻み、僕を永遠に引き裂いている。

           ***

 今日も兄さんはあたしを抱いてくれなかった。あたしの掌に精を吐き出しただけ。乳房に残る歯形が少し痛い。でも、それ以外、なにも証拠はない。あたしは処女のままだ。
 兄さんは、あたしが実の妹でしかも母さんと同じ修道女だから昂奮する。父さんと同じ過ちを犯すのを怖がって、それを忌まわしく思うからこそ昂ぶるみたい。
 まあ、わからなくもないけど。あたしもたぶん同じ。

 母さんは綺麗なひとだった。年取った今でさえ、ひとが振り返るほど美人だ。
 もしもあたしがまっとうなフィレンツェ市民の娘なら、そこそこ幸せになれたことだろう。あたしは母さんに似てる。だから持参金がそんなになくても、嫁き遅れるはずはない。今でさえそんな話もくるみたい。でも、小さな村の貧しい農民に嫁いで一生働きづめで終わるなら、結婚なんてしなくていい。本当にこころから愛するひとの妻になるのでなければ、「結婚」なんて意味がない。
 あたしはじぶんの好きな男と結婚できない。兄だから。
 妻の座が得られないなら娼婦でもかまわない。
 ただ、兄以外にも結婚したいひとはいた。

 むかし、サンドロさんの工房で女神のように美しいひとに嫉妬されたことがある。フィレンツェ一の美女に。
 その慎み深さゆえか、はたまた権高なためか、彼女は貴族の女性らしくその気持ちをあらわにしようとしなかった。弓なりの眉が微かに曇るのを見て、あたしはわざとサンドロさんに寄り添った。あたしも同じ女だから分かる。どれほど美しかろうと、身分が高かろうと、女には女の苦悩がある。
 あのひとはでも、気づこうとしなかった。たぶん鈍いのでなく、自身の冷たさのゆえに。

 あのひとはやさしい。けれど、冷たい。
 泣いているあたしの肩を抱いて慰めてはくれた。そして持参金なら都合はつけられると言って、ほんとうに吃驚するような額を差し出してきた。でも、あたしが望んでいたのはそんな解決の手段じゃない。ただ少しばかり器量がいいだけの、なんの地位も才能もない若い女が、フィレンツェ一稼ぎのいい画家の前で泣いてみせるのは「あなたの妻になりたい」という懇願だと、あのひとは気づかないふりをした。
 たぶん、男色者だから。

 女と寝られないのかどうかはわからない。兄さんを誘惑するようにあのひとに迫ったことはないから。あたしは蓮っ葉でだらしのない女だ。なのにどうしてかあのひとにだけは、「甘えん坊ではあるけれど、しっかりして気のつく器量よしの娘」だと思われたい。「自慢の妹」でいたいらしい。困らせてはみたいけど、切り捨てられたくはない。
 それに、ほんとうに男女の関係になりたいわけじゃない。あんないやらしくて汚らしいことを、あのひととしたいと思わない。だって、恥ずかしいもの。あんなこと、「他人」とはできない。サンドロさんは、あたしや兄さんとは違うひとだ。
 だからこそ、どうにも切ないときがある。
 あたしたちは、あのひとを言い訳に睦みあう。
 あのひとを真ん中に、互いの厭らしさを晒しあう。

 兄さんはたまにあたしを愛してるようなことを口走るけど、それは嘘。言い訳。理由が欲しいだけのこと。
 兄さんは、あのひとの傍にいる。しかも今ではフィレンツェ有数の画家になった。地位と名声と報奨を手に入れて満たされている。あたしの孤独、あたしの不幸、あたしの飢えなど知ろうとしない。

 誰も、あたしのことを気にしてはくれない。あたしの名前は忘れられる。父と兄の画家としての名声、母の美貌、両親の醜聞の影に隠れ、消え去ってしまうことだろう。
 あたしは誰にも愛されていない。喜びや悲しみを分かち合う友達もいない。母さんが気に病むのは兄の将来で、あたしのそれじゃない。あたしが女で、住むところと食べるもの着るものを保障された修道女だから。こどもが欲しいと願っても、兄さんはただ懼(おそ)れるばかり。

 フィリッピーノ兄さんが結婚するのは許さない。もちろん、あのひとも。彼らだけ幸福になるなんて絶対に許せない。

 あたし――アレッサンドラ――は、田舎の修道院で朽ちていく。実を結ばぬ花のように。




 了
 
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