唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 正午

3月23日 正午 (71)

   案の定、それから厄介なことになった。五限のマスコミ論でそいつと一緒になり、講堂の一つしかない後ろ扉から出るタイミングを掴むのに苦労した。送るよと友達とふたりでクルマに乗せられそうで、今からみんなで飲みに行くけど来ないと誘われて、冷や汗をかいた。無駄に笑顔が爽やかで、女の子の好きそうなクルマに乗っていた。とうとう彼女はそのグループに入り、気詰まりなのか一緒に来てよと請われたときに、都合よくお財布を忘れていて助かった。その男に奢るから来いよと口にされ、私は憤然と首を横にふった。驚きをあらわにして息をつめた顔を見て胸がすいた。友達にはカタイねえと笑われて、一対一じゃないんだから浮気じゃないし平気だよと諭されたけど、行かなかった。
 あのダイニングバーに浅倉くんがいれば、さいしょの質問の時点で話をずらしてくれただろうな、とその時にはもう私は施設管理局長でもなく文化棟に寄ることも少なくなっていたというのにバカみたいにそう思い、講堂で頬杖をついて、その男のいる派手な一団を後ろに見た。ワンレンかソバージュにカーラーで前髪をあげ、サンローランのピンクの口紅にシャネルの№19をつけた「女子大生」がいるような集団だ。ああいう男の子たちが一流企業に入って出世していくわけだ。内心で舌打ちし、成績だけなら負けていないのにと、ささくれた気分で淡いグレーのスーツにボウタイを結んで講義に出た。
 茶道部長で文化会本部役員で学園祭実行委員であったという肩書が通用する小さな世界にいるのではない限り、または日経新聞の人事欄に父親の名前が載るような娘でもない限り、ただの「女の子」でいるというのはしんどい。わりきって、若い女の特権を楽しめばいいのだと孔雀の扇をもってお立ち台で踊り狂えるほどルックスに自信もなく、大学院にすすむよう先生に推されるほど賢くもない。
 それなのに、「女子大生」には多少の価値があるらしく、女友達だけで飲んでいると、おごるから一緒にどうかと誘ってくるオジサンがいた。私は出来合いの笑顔で断った。潔癖だと友達は呆れたけれど、下心を忌み嫌うほど無垢じゃない。うちはコネ以外の女の子はねえなどとオフレコで宣言しながら社外では「女の子」がいたほうがいいのかよ、このスケベオヤジが、と悪罵をついて子供っぽい憤懣をのみこもうとしていただけだ。世の中に本音と建前があるのは承知していたはずなのに、わりを食うのが自分だと知って、はしたなく心中で他人を罵ることしかできない己に気づかされて胃がむかついた。
 幸いなことに、「オイルショック以来の就職難」という看板を背負いながらも、早いうちに内定は幾つか取れた。コネも頼ろうと思えばないわけではない。大学名で差がつき容貌で対応が違うことは理解の範疇だ。でも、「女」であるというそれだけで、自分には決して開かれることのない場所があるというその事実に、慣れることがなかった。
 そんなことを思いながらぼんやりしていたら、その男は講義のはじまる直前にとなりに座り、何でも望みどおりにしてやるよ、と囁いて机のしたで私の太腿に手をおいた。相手の目を見据えるとさすがに手を離した。友達は彼らの飲み仲間になって後ろの席に座っていた。外堀を埋められていると気がついた。
 ニュースキャスターの講師がマイクをおくと同時に私は立ち上がり、講堂から飛び出して走って階段をおりた。外に出ると、風のない夕暮れに梅雨の中休みでも乾くことのないアスファルトと土の匂いがこもり、全身を包むのを感じた。あの講義は落としてもいい、と決めた。
 年に両手ほども告白されることだってあるのに、軽くかわしてきたはずなのに、ダメなときはダメなのだと驚いた。いつだったか龍村くんに、深町サン、あんまり男をなめてるとヤバイことになりますよ、と叱られたことを思い出して指が震えていた。
 もし追ってきているのなら表門を通らないほうが無難だと思った私は、裏口へと走った。図書館の前で赤い自転車を押して歩いていた来須ちゃんに呼び止められて、足、触られた、と私はつぶやいた。綿麻のブラウスが、汗でキュプラの裏地に貼りついて冷たかった。
 とりあえず、うち来てくださいと彼女は言った。なんでそこまで一人で抱えるんですか、と怒られた。麦茶の注がれたグラスに雫が浮いているのを見つめながら、よく考えるとそんなに大騒ぎすることじゃないと思うとこたえると、そういう問題じゃないでしょう、と泣き出された。彼女の頭を撫でながら、私は自分がどんなに汚らしい女なのか、謀をめぐらすように考えていた。
 本当は、嫌悪感をおぼえたのはその男についてではなく、自分に対してだった。でも私はそれを秘密にした。堅くて真面目で清潔な「女の子」で生きてきたのだから……。
 彼女は酒井くんに話すとは言わなかったけれど、伝わったのは間違いない。彼が何を言ったのか知らないけれど、次の週からは声をかけられなくなった。
「来須にオレのケータイ教えたでしょ」
 浅倉くんの声に引き戻されて、私は彼の顔を見あげて問い返した。
「え、でも、教えていいって言ったよね?」
「そうですけど、応援すればよかったって言われちゃいましたよ。ったく、自分が幸せだからって」
 だったらあの頃あんなにむきになって邪魔すんなよな、と舌打ちのあと独り言めいて続いた。浅倉くんはきっと、この件は知らないだろうと思うと肩が落ちた。
「とにかくオレ、センパイ怖がらせるようなことなんかした?」
 責める視線ではなかったけど、不本意だという気持ちはありありと見えた。それはそうだろう。浅倉くんが私に親切で優しかったことはあれ、意地悪されたことは一度もない。タバコが苦手なのを知って席を替え、局長が強制される罰杯をかわって飲み干し、私の嫌いなタイプの猥談をギャグに戻し、よせばいいのに好奇心でたのんだ妖しげな料理を失敗したと口にする前に、チャレンジ精神旺盛なんだからと文句を言いつつ平らげてくれた。
「浅倉くんのせいじゃなくって……」
 自分の心臓がドキドキしているのを感じた。当時あれだけ頼りまくっていたことを思うとなんだか変だ。よほど、私をほっぽって遊び歩いていた酒井くんより近くにいた。
「怖いのは、私の、すごく個人的な記憶で、だからその、ええと、浅倉くんとそういうことするの、ちょっと、イヤっていうか」
「そういうことって?」
 それ、文脈から察してよ! わかってて訊いてるなら殴るからね。
 ところが、彼はほんとに首を傾けてこっちを見おろしていた。
「なんかすごく怖い目にあった、とか?」

スポンサーサイト



*Edit ▽TB[0]▽CO[0]   

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメント投稿可能です。

~ Trackback ~

トラックバックURL


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)