唐草銀河

板東夫人

板東夫人 1

   ため息をつくと幸せが逃げるというけれど、この半年でどれほどそれを逃しただろう。いや、この十一年の暮らしでついたため息をすべて数えあげたら、幸福が逃げるどころではないはずだ。
 そう考えて陽子の唇からまた重苦しい吐息がもれた。頭痛がする。身体のあちこちが痛み、涙が出る。鏡台の横に立てたイーゼルにある描きかけのキャンバスを眼にすると、嗚咽はさらに激しくなった。
 あれほど祝福されて結婚したのに、子どもを育てるにはいい場所だと説得されて引っ越したのに、何もかも違ってしまった。
 ほんとうに、何もかも。
 何もかも、
 終わりにしないとならない。

 一 

 スーパーでてきとうに夕食の買い出しをしてきてと義理の姉に頼まれることくらい嫌な気持ちになる出来事はそうなかった。頻繁ではないものの、電話でそれを言われると憂鬱になった。
 電話がかかってきたのは義母の家でお茶の稽古を終えて御釜を洗っているときのことだった。稽古中はマナーモードにして別室に置いておくのだが、終われば戻す。稽古仲間は、あら陽子さんの携帯よね、などと口々に声をあげるがおしゃべりに夢中でお茶道具の後始末を代わってくれる様子はない。この稽古場の師匠である義理の母も目配せを投げかけてきたけれど座の中心から動く気配はなかった。陽子はどうせ義姉だろうとわかっていたので、後でかけ直しますからと言いおいて携帯をそのままにし、底についた煤(すす)を刷毛でていねいに洗い清め、それを茶室へと戻してから廊下へ出て電話をかけなおした。
 気だるげな声の義姉が出て、ごめんなさい、調子が悪いので買い物をお願いしたいの、本当にいつも悪いわね、と口にした。陽子は愛想よく、わかりました、あとでお届けしますねとこたえた。いつもどおりの感謝の言葉を聞いてから電話を切って、小さな吐息がもれた。
 いつごろ気がついただろう。陽子が義母の家にいるときにかぎって、見計らったかのように義姉の美穂が電話をかけてあれこれと用事を頼んでくることに。
 勘違いかもしれないと考えた。被害妄想じゃないかと。
 じっさい義姉は妊娠中で幼い子どもを三人も抱えているのだし、大変なことは間違いない。それに、親の面倒をみると言いきってくれた長男の嫁のためにそのくらいの便宜をはかっても罰は当たらない。まして夫の両親に家を建てて住まわせてもらっている次男の嫁なのだ。陽子だってそうは思う。だから断ったことは一度もない。それでもため息は零れ落ちる。どうしようもない。
 たぶん、頼まれごと自体が嫌なわけではない。そこに義姉の嫉妬を感じとるからうっとうしいのだ。
 お茶の稽古を終えた後、お菓子をつまみながら四方山話にふけるのはみながとても楽しみにしている時間だった。稽古はそれ相応に厳しいけれど、義母の小百合はお茶の先生らしく話し上手で、間合いをとるのも巧みだった。みなの暮らしの中のささいな不満をひとつひとつすくいあげ、でもあなたのお宅はこんないいことがあるじゃないの素晴らしいわ、などと褒めるのは横で聞くだけでも悪い気持ちはしなかった。それがたんなるお世辞に聞こえずたいそう親身な言葉に思えるのはやはり人徳というものかと陽子は義母を尊敬していた。
 まして、小百合は女優のように美しいひとだった。洋服のセンスもよかったが、着物をきたときの彼女は格別で、大勢が着物で集う大寄せの茶会でもひとが振り返るのだった。
 稽古のあと、ときには漢詩や焼き物の録画番組を見たりした。みなの都合がつけば都内まで着物をきて展覧会を観にいったりもした。来週には市の文化祭で立礼の茶席を設けることになっている。だからみな今の時期はとくに稽古に気合いが入る。陽子はこうして田舎に引っこんだ今も、この義母のおかげで楽しく過ごしていると感じていた。たとえその手伝いのために、熱心に働いていた仕事をやめなければならなかったことも、今となっては気にならない。
 そのいっぽう、義姉の美穂とは反りが合わなかった。初めて会ったときはとても綺麗なひとだと思ったのに子どもを産むごとに太っていき、今はそう感じられない。年はひとつ違い、陽子のほうが上だった。
「頼まれごとをすまさないといけませんので、これで失礼します」
 陽子はことさらはっきりとそれを示した。美穂から電話がなければ最後まで残って、いま卓上にある茶碗まで拭いて帰るのが常だった。まだ炬燵(こたつ)に入っていたみなは、きちんと膝をついて挨拶をした彼女にあわてて座布団をおりようとした。それを笑顔でとめ、みなさんはどうぞごゆっくりと口にすると、小百合がすっと立ちあがり、稽古用生菓子の余った分を手早く紙袋につめなおした。陽子を玄関まで送りながら持っておいきなさいと手渡してくる。陽子はもちろん夫の誠も甘いものが好きだ。夫はことに和菓子には目がない。おしいただいて御礼を述べようとしたところで義母が声をひそめて言った。
「美穂さんはあなたに甘えすぎじゃないかしら。剛(つよし)さんから言ってもらうようにしましょうか」
 剛は美穂の旦那だ。陽子の夫である誠の三つ年上の兄にあたる。夫はこの義母に似た細面でひょろりとした背の高いひとだが、剛は舅と似て長身なだけでなく横幅もあり、学生時代はラグビー部にいたそうだ。よくも悪くも雑駁で、陽子には馴染めない。ありがたい申し出ではあるが、剛がストレートに美穂に何か言うとしたら、それはそれで後々めんどうなことになる気がした。なので明るい声をだしてこたえた。
「いえ、わたしもお夕飯の買い物にはいきますからついでのことです」
 あらそう、と小百合がこたえた。かすかにその声にほっとした様子が感じとれた。義母も事を荒立てたくないのだと陽子は思った。
するとそこで、小百合が声をまたさらに落としていった。
「陽子さん、少し早いけど初釜のときに着るように私の若いころの訪問着をお直しに出したのよ。来月半ばには届くと思うから、ひとりのときに取りに来てね」
 見つからないようにしてと続けられて、陽子はしかとうなずいて頭をさげた。小百合の若いころの着物を陽子の寸法に仕立て直ししてくれるのはこれで三枚目だ。順番からいうと本来は義姉が先に譲り受けるものだが、美穂さんはろくに着てくれないからと小百合は内緒で陽子に渡すのだった。
「ごちそうさまです。誠さん、喜びます」
 ここで失礼してごめんなさいねという義母の穏やかな笑みに見送られて玄関を出た。
 門をしめて狭い道路にでたとたん冷たい風が吹き抜けて、陽子は慌てて肩に羽織っていたストールをきつく巻きなおした。ふくらんだ蕾をもつ藪椿の生垣を横目にし、もうすぐこの花が咲いて一年も終わりになるのかと、陽子はふいに空恐ろしい気持ちがした。

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