唐草銀河

板東夫人

板東夫人 3

   けっきょく講演会にはふたりで参加した。人集めで呼ばれているのだから当然だ。幸いにして義母の茶会の翌日のことだった。前日であれば準備に追われて行けなかったところだ。
 市民会館に併設された福祉会館の大会議室には椅子がまばらに並べられていた。そこに座るひとびとの大半は学生やその家族、または役所関係で呼び集められていたようであった。配布されたチラシには人好きのする淡い色彩の風景画が印刷され、芸大講師と記してあった。陽子は巷によくある病んだグロテスクな絵画は好きではなかった。個人の痛々しい内面を曝け出すのがアートだとする考えにも納得できなかった。だから売り絵風であるかもしれないが、淡々と風景を描いて、どこかモダンな新しさのある絵には素直に好感をもった。
 市長の紹介があって後、講師の三十三歳の青年が市のアートへの取り組みに熱心に賛辞を述べ、ちかごろの投資目的の購入者へ苦言を呈し、教え子らしい学生たちを前にして彼らを鼓舞していた。
 講演が終わり、三期つとめた市長がふたりの前に講師を連れてきた。夫婦がともに現代アートに関心があり、誠が勤めていた会社がメセナ活動の一貫で彼の卒業制作作品を購入した件を伝えると、山本と名乗った講師は講演の素朴さとうってかわって身を乗り出してじぶんの絵の話しを面白可笑しくしはじめた。恩師のお供である会に参加したところ、いつも自分をあごでつかう画商が一個三万円の松華堂弁当と土産までつけてくれたこと、雑誌インタビュアーがこんどニューヨークで個展を開催すると伝えると飛んできたこと、それらをときに若者らしい誇りをもって、また同時に自身を笑いものにする余裕ももたせて語った。
 市長は途中で職員に呼ばれて出ていったが、山本は話しやめなかった。その間も、彼らの後ろで学生たちが手持ち無沙汰な様子で屯していた。ふと陽子は振り返り、女の子が多いと感じた。そういえば先ほどの講演でも、今はどこでも美術系は女子の活躍が目覚ましいそうで、山本は冗談交じりで男子諸君に頑張ってもらいたいと励ましていたのだった。
 山本は陽子が美大の油絵科を出たと知ると、じぶんの絵画教室に来てもらえないかと切り出した。絵を見てほしい、つまり暗に買ってほしいという話しが出ないとおもったら、こういうことかと納得した。陽子はそっと隣りにいる夫の顔をうかがった。誠は珍しくその視線に素早く気づいて鷹揚な調子でこたえた。
「芸大の先生に教えてもらえるなんてそうそうないことだよ、一日体験入学だけでも行ってみたら?」
 山本はいまどきの青年らしく、是非ぜひ、と軽い調子で合わせてきた。陽子はもちろん絵を習うことにも興味はあったけれど、それ以上に都内に出られるのが嬉しかった。少なくともその日は、義姉の美穂から用事をいいつけられないですむ。
 ただし、その場で即答はしなかった。夫が体面を気にして言っただけのはなしかもしれない。陽子の要望を人前で覆すことはないけれど、ふたりだけになるとやんわりと釘をさすのが誠のやり方だった。
 気持ちが決まりましたら連絡をさしあげますと、陽子は山本の名刺を受けとった。彼は陽子にもちょくせつ名刺を渡してきたのだった。しばらく名刺入れなど持つ暮らしをしていなかったと思い返しながら、陽子はそれを丁寧に手帳に挟みこんだ。
 山本は、ご連絡お待ちしてますねと馴れ馴れしさすれすれの気さくな感じで微笑んだ。それから誠のほうへと向き直り、今日はぼくの事実上のデビュー作を御存じの方にお会いできて感激しました、またお会いできますようにと改まった様子で頭をさげた。

 その日はひさしぶりに外で飲みたいと夫が言うので、はるか遠くに富士山を臨みながら土手の上を歩いた。まだ日が落ちるには少しあり、それでもゆっくりと散歩するには冷たすぎるくらいの風が吹いていた。けれど黒々とした鉄橋の向こうに太陽が沈み、ゆるやかに流れる川にその様がうつるのは快かった。
 陽子はこのすっかりさびれた片田舎を少しも好きになれなかったけれど、目の前にある豊かな川の流れを眺めるのは本当に好きだった。西に富士、東に筑波を従えて、天上にある太陽を川面に抱く大河は、坂東太郎と呼びならわされる大らかさを存分に感じさせてくれた。
 陽子はだから、今でもこの街を嫌いになりきることができなかった。その、ふとしたときに見せる表情にはときめくことがあった。ここに越してくると決めたのは、結婚のあいさつに出向いた日、平野家の庭に立つ白木蓮の巨木の荘厳さが忘れられなかったからだ。お茶の先生をしている小百合が丹精込めた庭に季節ごとの花の咲く風情にはひかれてもいた。まだあのころは、この街に屋敷と呼んでいいような家がたくさんあった。今ではそうした家は取り壊されて、同じ敷地にアパートやマンション、または戸建て住宅が六軒も建っている。中学生まで団地で暮らした陽子は、じぶんの子をこういう環境で育てたいと願っていた。それは結局かなわなかったのだけれど。
 ふいに、絵を買うよりはずっと安いかもしれないな、と誠がつぶやいた。ニューヨークで個展するくらいだと恐らく号いくらだろうと具体的な数字をあげてから、陽子のほうを見た。
「ちかごろおふくろと義姉さんの手伝いでじぶんのことが出来てなかっただろう」
 夫はいかにも優しげな声音でそう言った。陽子はただ黙って、横を歩く夫を見あげた。グレーのスーツをカジュアルに着こなした夫は出会ったころを思わせた。義母とよく似た面長のととのった顔に、柔和な笑みが浮かんでいた。
「陽子が行きたいなら行ってみたらいいよ。月三日くらいなら、おれは外食してもいいし、カレーなら陽子より美味しく作れるくらいだ」
 夫が子どものように胸をはるので、本当にそうねと陽子は笑った。たしかに夫のカレーは時間をかけて玉葱を炒めるし高価な肉をつかうので凝っていた。後片付けはしないしサラダもスープも出てはこなかったけれど陽子は満足だった。
陽子がありがとうと囁くように口にすると、夫は笑い皺を深くした。
土手をおり、細い脇道に入ると夫がそっと手を掴んできた。手をつなぐのは久しぶりで陽子は少しためらってからそっと握り返した。すると夫もしっかりと手を繋ぎ直してきた。
 そのまま無言でしばらく歩いた。
 知らない家の庭に咲く菊の花が鮮やかで、空き地に咲く色とりどりの秋桜(こすもす)が風にその頭を揺らしていた。今日は美味しいお酒が飲めるにちがいないと彼女はこころ浮き立つようだった。

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