唐草銀河

「遍愛日記」
3月23日 正午

3月23日 正午 (72)

   なにを想像されているのか考えると気が抜けた。
「そう言われちゃうと、何にもなかったんだけど。子供だったからびっくりしただけで」
「チカン?」
「そこまでのレベルでもない」
 笑ってしまった。ほんと、笑ってしまった。
 とりあえず口にしないとダメだから。呼吸を整えた。
「子供のころ、ロリコン男に後をつけられたことがあるの。ただつけられただけで何にも別になかったんだけど。なんか、そのうちのひとりが浅倉くんに似てたような気がして思い出すのも怖くて。黒い服きた細身の若い男のひとってだけなのに。ごめんね、浅倉くんのせいじゃないのに」
 沈黙が、めちゃくちゃ気まずい。自分に似てる男の不埒な行動のせいで、怖いと避けられるいわれはない。かといって、お姉さんの口紅の色ひとつ気にすることのできる彼の性格からすると、そんなの大したことないですよ、とも笑い飛ばすわけにもいかないか。
 ここは私がひたすら謝罪して機嫌を直してもらい、でもって、その先はまあ、おいおい考えるという方向で、と決めたところだった。
「……それ、オレです」
「え?」
「オレです。あの、でも、オレべつに、ロリコンとかペドフィルとか、んなんじゃなくってただ会いたかったっていうか」
「なに、言ってるの?」
「や、でも。それ、オレとしか思えない」
 真顔だった。
 なにか、恐ろしい空気がふたりのまんまんなかにズドンと落ちているのを感じた。墜落した未確認飛行物体の視認確認をするのはこんな感じかもしれないなどと、私は息をするのもいけないような気持ちで瞬きをくりかえして彼を見た。
「そんなこわい思いさせたなんて……」
 つぶやきが凍り、音をたてそうな異質さで耳に届いた。
「だ、だって、私の子供のときのことだよ?」
 ずっとうつむいている相手が、ちら、と顔をあげて訊いてきた。
「……帽子、かぶってなかった?」
「え」
「赤い、ひらっとした服で」
 その通りだ。黒いボアつきの、ケープのついた深紅のオーバーコート。
 首の後ろが、ぞわっとした。粟立つ腕で身体を抱いて、思わず一歩、退いていた。
「オレ夢だと……思ってた」
 ようやく顔をあげた浅倉くんが困ったように、私を見おろしてつぶやいた。
「ど、ういう、こと?」
「ごめん。でもオレ、ほんとにその、ロリコンじゃなくて、追いかけたのも、似てたからただ名前を聞いて確かめたかったからで」
「じゃあ……」
「っていうか、ああ、うわ、いや、ごめん。や、オレ、ロリコンよりある意味じゃヒドイっつうか正直っていうか、まずいし」
「浅倉くん?」
 問いかけにも、彼は頭を抱えるようにしてうなだれていた。こんな顔は見たことがなかった。浅く、やや荒い息遣いに、こちらが不安になった。
「誰にもその、誰とも付き合ったことのないセンパイに会いたかったっつうか……誰も知らなくて、誰にもその……」
 言いたいことが理解できてしまって、どうしたらいいのか、考えてしまった。
 まあ、結論をいうとどうしようもないね。
 そういう独占欲を知らないわけじゃないけれど、それはまあ、無理だから。
 というか浅倉くん、そもそも君は一体、何者だ? こないだマレー獏に変身したと思ったら、次はコレですか。
 私の大いなる疑問はけれど、彼の狼狽ぶりの前では比較にならないくらいちびちゃいことのように思われた。
「あのころオレ、酒井さん、本気で許せないって思ってて、オレだったら絶対に大切にするのにって、他の女と出かけたりしないのに、絶対ひとりにしないしそばにいてすごく大事にするって思ってて」
 ありがとう、というのも変な気がして口をつぐむ。
 でも、正直、あの頃の私にはあれはあれですごく楽しかった。私も実は、だいぶ年上の男に粉かけられながら美味しいとこだけ味わって、BFがいるってことでヤバクなったら逃げたりした。助教授、だったから。踏み込むには色々、まずかったんだろう。
 ただの好奇心と背伸びで、彼に対する密かな意趣返しだと当時は思ってもいなかったけれど、他人事だと判断すれば、それって絶対、やったらやり返す、の心境だ。嫉妬しないかわりに、野蛮な復讐を選んでしまったと指摘されたら反論しがたい。
 強引に来られるとこわいくせに、手を出されないのなら崇拝者のひとりやふたりキープしておいても罰はあたるまいと思っていた。それをヨコシマだと責められたらうなだれるしかない。
 悪いことなんていくらでもできる。気持ちがいいほう、楽なほうに流れていく自分を引き止めるものが、本当にこの内側にあるのだろうか。世間の目や外側からの規制がなければ、私はじゃあ、何でもできてしまう? 貞淑という概念は、いったいどのあたりに線引きがあるんだろう。
「ねえ、浅倉くん。私そんなに」
「こずるくて小心者だって知ってるよ」
 あ、今けっこう真面目にムカってきた。自分でそう思ってるくせに、ひとに言われると腹立つなあ。
「オレとミズキ、どっちも選べないの、恨まれるのがイヤなんでしょ。悪者になる勇気がないんだよね。お姫様みたいに泣いてれば誰か助けてくれると思ってる?」
 そこまで言うか、という反駁は口をついて出て行かなかった。
 ずっと、誰か助けてと思ってたから。
 神様たすけて、と。


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