唐草銀河

板東夫人

板東夫人 11

   ネットで「今日の献立」を調べるのも馬鹿らしくなっていた。なので陽子はカレーの材料を買って帰った。義姉の美穂はいつもと同じスエットの上下で出迎えた。
 そして、ビニール袋の中身をみて吹き出した。
「カレー? やだもう、昨日うちカレーだったのに」
「あ、ごめんなさい……考えなしで」
 陽子はしどろもどろで謝った。けれど美穂はからからと笑い、いいのいいの、てきとーにって言って文句いってごめんなさいね、陽子さんの献立のセンスいつも素敵だから頼っちゃってごめんね、と口にした。それで陽子は気がついた。美穂は今までどんな材料を渡してもきちんとそれ相応のものを作っていたのだと。
 よいしょ、と美穂は陽子の手から買い物袋を取りあげた。その腹はふくらんだビニール袋と同じ大きさに見えた。持ちますよ、と手を出すが、美穂は首をふってそれを玄関のなかにしまい、それから陽子の腕をつかんで外に出た。
「美穂さん? あの……」
 美穂は寒いのか身体をちぢめ、一歩陽子に近寄って声をひそめて口にした。
「男のひとと手を繋いで歩いてたでしょ」
 陽子は息を詰めた。美穂は、その顔をみてにこりと笑った。
「駄目よ、馬鹿正直にそこでそんな顔しちゃ。しらばっくれなきゃ」
「……あの」
「うちのひとが、陽子さんそっくりのひとを見たって言ってたからさ。お義母さんにはそこまで言ってないから安心して。でも、やっぱりそうなんだ、ふーん」
 陽子はその場にしゃがみこみそうになっていた。なにも言葉が出なかった。
「ああ、そんな心配しないで。べつにそれで誰かにどうこう告げ口したりしないから、ほんとに」
 そんなはずはない。告げ口したからこそ今日の義母の態度があるのではないか。そう言い返すことはできなかった。美穂の、まるまると突き出た腹をただ見つめた。
「でも、あたしが思うに誠さんも悪いよ」
 何を言い出すのかと美穂の顔を見た。
「え、知らなかった? 誠さん、さいきんキャバクラとか通ってるよ。帰ってくるの遅いでしょ。あれそうなのよ。うちのひとと違って真面目なひとかと思ってたら」
「でも、それは仕事のお付き合いで……」
「まあ、そう思いたければそれでいいけど」
 美穂が肩をすくめてうなずいた。そして、うつむいたままの陽子の顔をのぞきこむようにして続けた。
「陽子さん、あのお義母さんのお人形さんみたいにいい子にしてきたもの、ショックよね」
 陽子は知らなかった。いや、気づこうとしようとしなかったのだろう。先ほどの夫の態度はじゃあ、もしかすると何もかも知ったうえでのそれなのか。
 わからない。
 美穂の膨れた腹が陽子の腕にあたった。陽子は何故かぞっとして身をすくめた。きゅうに寒気が襲い来た。だから、「ごめんなさい。失礼します」と口にした。
「陽子さん?」
 美穂は何かまだ喋りたさそうな顔をしていたが、陽子はごめんなさいとくりかえし無理やりそこで話しを打ち切った。陽子さん、待って、と声がかかったが振り返らなかった。これ以上何か言われたらその場で破裂したように泣きだしてしまいそうだった。
 陽子は寝室に駆けこんだ。
 鏡台の前の椅子に腰かける。冷静になりたくて、じぶんの姿を眺めようとするのだがうまくいかない。視線が定まらないのだ。重い吐息が漏れた。泣くのを我慢していると頭痛がしはじめた。関節が痛む。きっと風邪を引いたのだと考える。その合間に涙が零れはじめた。唇をおさえ、嗚咽をこらえる。夫に聞かれてはならないと思った。けれどそれも長くは続かない。
 あれほど祝福されて結婚したのに、結婚がなんなのかわからなくなった。ここで育てるはずの子どもは陽子の腹に宿ることはなかった。
 夫が階段をのぼってきた。
「話しがある」
 ドアをあけたが、いきなり寝室に入ってはこない。陽子は顔をあげて夫を見た。もう何を言われても怖くないと思った。
「……この街から引っ越そうと思うんだ」
 陽子は涙を拭いた。夫の顔をよく見るために。
「兄さんが会社の金を使いこんでる。女相手らしい。おれが施主に頭下げて稼いでる金をさあ、こんなんじゃやってられないよ……」
 夫はゆっくりと寝室にはいりベッドに腰をおろして太い息を吐いた。
 陽子はわけがわからなくなった。キャバクラに通っているというのは夫のほうではなかったのか。
「おまえはこの街にくるのに反対したのに、今まで我慢させて悪かったな」
 夫があたまを下げていた。陽子は信じられないものを見たような気がして首をふった。
「とりあえずこの家を売ることにする。それで前の会社の同僚が一緒に事務所を作らないかって誘ってくれてるから、そっちに賭けてみようと思う。また不安定なことには変わりないが、しがらみがない分、気が楽だ」
 涙は止まっていた。
 けっきょく、今回も陽子に相談はないのだ。それに、この家がどのくらいの値段で売れるのか陽子にはわからない。会社の同僚の名前すら知らない。ほんとうに信用できる相手なのかどうかも。
「陽子には今までみたいに楽はさせてやれないと思うが、一緒に頑張ってくれないか」
 夫の誠は、陽子が首をたてに振るものと思っていた。そう信じて疑いもしていなかった。
 ああ、と陽子は息を吐いた。
 ああ、と。
 最後の何かが、彼女のからだから溢れ出し、零れ落ちていった。
 陽子は頬に流れる涙をふいて微笑んだ。
 それをみた夫は、おいで、と腕をひろげた。
 陽子は身を投げ出した。夫の手指は玉葱のにおいがした。

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