唐草銀河

磯崎愛の小説サイトです。2010年10月から毎週金曜更新まる三年無事達成しました! どうもありがとうございます。下の「全ての更新履歴」2017年分を閲覧ください。「はじめに」を御一読後、年齢制限等をお守りの上、御入室くださるようお願い申し上げます。

ある名詞を巡る三つの物語

ある名詞を巡る三つの物語


   ~ある貴婦人の回想~

「姫様、鳩の血を使うのです」
 乳母の言いつけを守り、わたくしは処女の証しを純白のリンネルに残しました。女(ファム)に生まれたことを後悔した覚えはございませんが、不便なものだとは感じました。
 けれどもわたくしの夫、宮廷一の洒落男と目される王弟殿下はおやさしかった。新床のわたくしを気遣い、こうもお話しくださったのです。
 からだの力を抜いて足を開き、目を閉じておいでなさい。
 殿下、では、この口はどのようにしたらよろしいでしょう?
 あの方は、綺麗に整えられた髭のある口許を緩ませて鷹揚におっしゃいました。そうですな、そこは貴女のお好きになさるといい。
 殿下には、このわたくしにも幾許かの機智があるとお認めになったご様子でした。ですから、わたくしは安堵しておりました。いとも高貴な御方は、嫉妬などという野卑なものをお持ちになることは決してないのだと。



   ~ある若き賢人宰相の呟き~

 王弟殿下に妹をさしあげるのを拒む理由は何もなかった。男色家だという噂を否定するためにも、あの方には結婚していただかなければならず、また二十七歳の年の差も気にすることではない。
 結婚が決まったときにも妹は変わらなかった。いや、いくらか以前より快活になった。彼女は私と二人だけになると、笑いながらこう訊いた。
 お兄様、殿下がお床入りで場所を間違われたらどういたしましょう?
 私は妹の髪を撫で、つづいて髪よりもずっとやわらかなそれを唇で弄びながら、殿下に恥をかかせないためにも、おまえが上手に誘導してさしあげなければ、と微笑んだ。
 おまえ。
 私が女性に対して、おまえと呼んだのは彼女だけ。妻でさえ、そうは呼ばなかった。
 私のただひとりの女(ファム)。我が、妹よ。



   ~ある王弟殿下の告白~

 何故、このわたしは気づいてしまったのだ。あの女の嘘を。その、けっして許されざる不貞を!
 結婚の次の朝、彼女はこう囁いた。
 殿下は愉しむことがお好きですわよね? わたくしも不能の神の教えに従うなんて真っ平ですわ。お互い、他に愛人がいることを楽しまずに、どうして貴族の中の貴族と名乗れましょうか?
 その提案には喜んで同意した。当時、愛人にした男は鹿のように美しく、犬のように忠実で、賢くはなかったが、わたしをとても悦ばせてくれていた。わたしは彼を自分のそばに置くために、さる名門侯爵位を継がせたのだ。だが、彼はわたしの妻に嫉妬した。若く美しく教養があり、彼よりもずっと身分の高い女に! 
 わたしはいつの間にか彼女を受け入れていたのだ。女としてではなく、ただ、わたしと同じ不埒を楽しむ気質を、その自由な精神を、おのれの双子の魂のように慈しんだのだった。
 けれど彼女が想いを寄せていたのは、その、血を分けた兄ただ一人。王家より歴史が古い公爵家に生まれ、老いたわたしの兄にかわり賢人宰相などと呼ばれて国を預かるあの優男!
 それ故に、わたしは愛人の無謀な思いつきを止めなかった。だから、彼の銃が暴発してこのわたしが怪我を負ったのも自業自得なのだ。わたしが死ねば、彼女には莫大な遺産が転がり込み、再婚しない限り王族としての権利も守られる。
 死の床のわたしにも冷たい妻(ファム)よ。一度くらい敬称でなく、夫の名を呼ぶといい。それでそなたの嘘を許しはせぬが、その不義は美しく、わたしはそれにも魅かれたよ。そなたら兄妹と地獄で逢うのが待ちきれぬ。今度は三人で愉しもうと、命じるのだ。断ることは許さない。次はわたしが王になる。そのほうが、より愉快ではないか?
 来世でもお前を愛すと告白して、この口も目も閉じることにする。


 了(2009年5月10日)

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空が青いと君がいった日 5

空が青いと君がいった日


 自分が何を求めているのか想像して笑った。
 わたしはただ、自分の欲望のままに「力」を振る舞いたいだけなのだ。
 それを名誉だの正義だのとわかりやすい言葉で粉飾し、誤魔化しているだけだ。
 むろん、それを今ここで口にしてもいいわけではなかった。
 それでも、彼の誤解だけはといておきたい。

「わたしは真の騎士ではないよ」
「そうですか?」
「ルネさまのような方をそう言うものだ」
「俺、そういうあの方を作ったのって、アンリさんなんじゃないかって思いますよ。まあ現実的にはアンリさんだけじゃなくて、ニコラさんも含めて神官様の周りのひとみんなだ。神官様はお姫様のことは諦めたのに、ヴジョー伯爵であることはやめない。それってそういうことですよね?」

 彼はわたしを責めたわけではなかった。
 その証拠に、続いた言葉はかるい笑いにまぎれた。

「あなたは着るものと食べるものと眠る場所があれば生きてけるといったけど、俺の見るかぎり、たいていの人間は何のかんのいってそれだけじゃ駄目なんです。誰かに、何かに、縋らないでは生きてけない」
「君は?」

 わたしの口をついて出た問いに、ジャンは肩をすくめた。

「太陽神殿そのもの、かな。この世からそれがなくなってしまったら生きてけないって思うのは、それくらい。恋人もいないし友人もいない。家族はみんな死んじまったしね。縋るのが人間のほうがマトモなような気がするんですが、いないんで、しょうがない」
「けれど、対象はどうあれ、そういう執着は醜いものじゃないかな?」
「ああ、その気持ちはわかります。でも、キレイ汚いは二の次で。善なるものと美しきもの論理は古代から今でも帝都学士院あたりじゃ侃々諤々議論されてるでしょうし、有用だけど、俺、自分も含めてぐだぐだに弱くてみっともない人間、けっこう好きなんですよ」

 それに気づいたら楽になりました、と照れ笑いをした青年を、わたしは黙って見つめた。そして、かるく頭をひとふりして思ったことを告げた。

「君は、太陽神殿の歴史に名を残す神官になると思うよ」
「そうですかあ? いまの俺、無位無官ですよ?」
「まあ、うまくすれば、の話だがね」
「ああ、そういう無責任な言い方はいかにもアンリさんらしくて嫌いじゃないですねえ」

 皮肉の色もなく、とても健やかな笑顔だった。
 わたしは、この若者に自分が嫌われていないと知った。

「あああ、ほんと、今日も抜けるように空が青いや。この分じゃ、畑仕事に精を出さなきゃまずいですね。すぐに背丈が伸びちまう」

 両腕を空へと突きあげるようにして空を仰ぐジャンの横顔を盗み見た。思いのほか端正な鼻梁と男にしては繊細な頤の線を目にし、少しばかり浮かれた自分へと重石をするように、彼の名前をよんだ。

「ジャン、その前に、ロベール親父の店で豚挽肉を買ってきてほしい」
「ちょっと待った。それって蛆がわいてるような古くて不味い肉を並べてる店じゃないですか?」
「文句を言うな。それに、さすがに虫が湧いてるものは売ってない」
「たまにはもうちょっとましな肉を食べましょうよ」
「ニコラと君が丹精して育てた香草があれば臭みは消えるよ」
「鹿肉とはいいませんから!」
「贅沢をいうなら、今日も豆の汁物とパンだけですますぞ」

 貴族のくせに貧乏たらしいんだから、とジャンが口を尖らせてぶつぶつ言っていたがそれを聞き流す。

「そういうことで、わたしはここで失礼する」

 湯屋の前で足をとめたわたしに、ジャンは苦笑した。

「アンリさんて、エミールには甘いよね」
「お望みなら、君にも優しくしてあげよう」
「気色悪いからよしてください」

 本気で怖気をふるわれて、わたしはいささか不愉快な気分になった。ジャンはこちらの不機嫌に気づき片頬で笑い、わたしの金髪を眩しそうに見ていった。

「俺、たまにあなたみたいになりたいって思います」
「は?」
「美男子で腕が立って頭よくて女にもてて」
「否定すべきところは確かにないね」
「ほ~んと存在自体が嫌味っていうか、しかも自由だし」
「そこは、どうだろうね」
「自由ですよ。あなたは自ら選び取って、太陽神殿にいる。とらわれたくて、囚われた。ずるいですよ」
「ずるいと言われても」
「だから、あなたは天辺にいかなくていいんですよ。その場所は、あなたの大事な人の場所なんでしょ?」

 先ほどの件を蒸し返されて、それが彼の謝罪と礼だと気がついた。

「すみません、心配かけて。たしかにあなたの言うとおり、俺は未熟です。もしかしたらあの女の人のことが面倒で投げ出したのかもしれない。それでも、俺は自分のやれることをやるしかない。だから忠告してくれて、ついてきてくれて、ありがとうございます」

 矢継ぎ早に言い切られて、わたしは少々面食らった。
 ジャンは言うだけ言ってすっきりしたという顔で、こちらを見た。

「ま、そういうことなんで、これからも、その調子でお願いします」

 彼は驢馬の手綱を片手で引いて、背を向けた。 
 先ほどのわたしの言葉をひきとってみせた青年の後ろ姿に、自分の口許があっけなく緩むのを感じ、笑いをこらえるのに苦労した。 
 長閑な蹄の音を耳にして上を向くと、彼のいうとおり空はどこまでも青く晴れ渡り、一片の雲もない。
 世は並べて事もなし。
 ジャンが、神官職の長衣を着るのはそう遠くないことだろう。

                                終



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空が青いと君がいった日 4

空が青いと君がいった日


「わたしが思うに、それは君がやることじゃなくて《死の女神》の神殿の仕事じゃないかな?」
「それはそうかもしれないですが、女の人のためってだけじゃなくて、太陽神殿の教義や対応自体に問題があるのは事実です。けっきょく世の中って弱いひとのところに負担がいきやすいじゃないですか。そういう全てをどうにかできるとは思ってませんが、考えて、少しでも動かせるなら、どうにかしたいんですよね」

 彼のいうとおり、戦乱や疫病でわりない被害にあうのは子供、老人、そして女性だ。また、家や家族を失った女たちが新しい町で男の袖をひくのはどの国でも見られる。
 わたしは歪んでいる。
 平和が一番と願うくせに、こころの何処かで何かを期待していた。望むのが戦だなどといえば、主君のルネさまに叱られるであろうことは理解していた。それでも、自身の力を試したいと希う卑しさを黙殺はできない。それは、側室腹に生まれたゆえの抑圧か、はたまた誰かをこころゆくまで屈服させたいという醜い欲望のためか、わからない。わたしにわかるのは、わたしの抱える鬱屈は誰が見ても美しいものではないという、それだけのことだ。
 故に、わたしはそれを隠蔽する。
 そうして押し込められた熱の煩わしさは、刹那的に欲望を吐き出すことで癒されるものでもない。ただし、利点はいくつかある。少なくとも、頭も身体もかるくなる。
 しかし、それでは何の問題も解決されていない。
 むろん、わたしは悪い客ではない。彼女たちを殴りもしないし花代以上の無理も要求しない。支払いをけちることもない。さりとてそれがわたしという人間がまっとうであるという言い訳にはならない。
 女の繰言を聞いてやり、自分の意見を押し付けず、世の不条理な構造自体を問う、問うだけでなく動かそうというジャンのほうが、人間としても男としてもまともだろう。 

「ちかごろじゃ、俺ってまっとうな神官にはなれないなあってよく思うんですよね」
「そうかい?」
「だいたいみんな、揺るがないんですよ。でも俺、どうもそういうわけにいかなくて、悩んでばっか」
「そのほうが、よっぽど健全だと思うけどね。ひとの人生を預かるんだから」
「俺は、生き死により大事な魂のことを預かるのが、信心ってやつだと思うんですよね」

 ジャンとはじめて信心のはなしをしていた。今まで巧妙にさけていたことを、彼が屈託もなく語りだしたのでわたしは内心おどろいていたが、口は勝手にひらいた。

「魂なんて、死んでしまえばわからないと思うけどね」
「そう。そこなんですが、モーリア王国の《至高神》は死んでから後の方が大事だっていうんですよ。生きている間の行いで死後が決するって問題据え置きみたいですが、実に賢明だなって。誰もわかんないことをもっともらしく言うっていうか」
「《死の女神》の神殿はなんていってるんだい?」
「ああ、あちらはあちらで理論武装してますが、俺の興味あるのは太陽神殿のやり方なんで。対応が鈍臭いんですよ。及び腰でまるでなってない。こんなことしてると、そのうち《至高神》に信徒を奪われちまう」
「太陽神の信徒はこの大陸中に山ほどいるじゃないか?」
「数は問題じゃないんですよ」
「神官職という人間は、ひとつのパンをみんなで分け合うのに必死なようだね」
「いえ、話はそうじゃないです。今までは、太陽神やら死の女神やらで分け合っていたパンを、《至高神》が無いものとして扱おうとしてるんです。俺が思うに、そういう世の中は息苦しいんですよ」
「あちらはあちらで、こっち側がふしだらで乱れていると言う」
「たしかにその反論には一理ありますが、翻って一神教は政治に利用されやすい」
「それは、どの神でも同じじゃないかな」

 わたしの気のない様子にも、ジャンはめげなかった。

「利用はされますが、同じではないです。考えてもみてください、自分たちの神だけが本物だというのは、自分たちだけが正しいということだ」
「誰だって、自分が正しいと思って生きているんじゃないかな?」
「あなたはそうでしょうが、俺は違います」

 強烈な皮肉とみたが、ジャンはそんなふうに感じていないようだ。わたしは施政者として自分に非があると認めることが敗退であると知っている。そして、彼もそれはのみこんでいた。

「アンリさん、もしもこの国がモーリア王国との戦争に負ければ、この大陸の多くの神殿が駄目になるかもしれないってことですよ」
「それは、わたしには関係ないな」
「関係、あるでしょう」
「ないよ。わたしが戦うのはこの国の騎士だからで、それ以上でも以下でもない。信心のことは君が考えることで、わたしはそこまで責任を持つ気はない。着るものがあって食べるものと眠るところがあれば、わたしはそれで生きていける。領民にそれだけは保障するよう働くだけだ」

 ジャンが肩をすくめて笑った。

「アンリさん、俺は、勝てばいいだけの単純明快な騎士が羨ましいですよ」
「ジャン?」
「主君やら名誉やら、自分の大切なものを決めて悩まない。俺は、疑り深くてそんな真似できないです。自分のやってることが正しいか正しくないか迷いっぱなしでキツイんで、何があろうと迷わないって羨ましい」
「君に、脳の中も筋肉で出来ている愚か者呼ばわりされている気がするが?」
「愚かでも、貫き通せばホンモノでしょ? 俺、あなたの信心はその『騎士』ってやつなんじゃないかと思いますよ」

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空が青いと君がいった日 3

空が青いと君がいった日


 わたしがとぼけると、ジャンは尋ねたことをあからさまに後悔したように口を曲げた。その顔をみて、自分が少し嫌になった。自己嫌悪を払拭すべく、わたしはすぐさまその名を告げた。

「マリー・ゾイゼ。この国の宰相閣下の息女にして、アラン・ゾイゼ神殿騎士団長の妻だ。もっとも、あまり公式行事にも出席しないから話したこともないけどね。彼女もわたしの顔をそれと知っているかどうかわからない。それで?」
「それでって、なんですか?」
「気になったから、わたしに尋ねたんだよね? 他に聞きたいことがあれば聞けばいい。あのご婦人の個人的なことは知らないが、この国の貴族社会、またはヴジョー伯爵家郎党が知っているようなことなら答えられる」
「聞けばって、別に、俺はその……」

 後ろに行くにつれて、彼の声が小さくなった。
 マリー・ゾイゼの顔に火傷の跡さえなければ、彼女の名がひとの口にのぼらない日はなかっただろう。ある種、凶暴なほどの美貌をたたえたエリス姫と違い、誰もが安心して見つめることの許された淑やかな女性だった。彼本人が意識しているかどうかは別にしても、ジャンのような若者が憧れるに相応しい、年上の美女……。

「立派な方だと、尊敬してるだけですから」

 わたしの感慨を打ち消すように、ジャンがいった。彼はこちらの勘繰りを察知して、すぐさま訂正を促したわけだ。だが、かえってそれが余計に興を引くものだと、わかっているだろうか? 
 それでもわたしは話題を変え、以前から気になっていたことを尋ねていた。

「太陽神殿の教義では、堕胎は許されてなかったよね?」
「そうですが、はじめに断っておくけど、さっき連れて行った女性は堕胎しにいったわけじゃない。恋人から殴られるって相談されたんですよ。まあ恋人っていってもお察しのとおり婚姻関係にない『旦那』、なんですが。別居をすすめたら住むところがなくなって困るというので住み込みの手伝いの仕事を斡旋したら、彼と別れるのは嫌だとか言い出すし、その度ごとに言うことが違って希望をきいても要領を得ない。俺もゴチャゴチャしてわけわからなくなって、そういえば古神殿では女の人を無条件で受け入れてくれてたなって思い出した。とりあえず話だけでも聞きに行ったらいいと思って、連れて行くことにしました」
「ルネさまに相談せずに?」
「彼女が、神官様に話すのは絶対に嫌だって言い張るから。嫌なものを無理にさせるのは駄目でしょう?」
「まあ、そうだね」
「太陽神殿じゃもともと女性は神官になれないし、女の人のこと考えられてないんですよ。さっきの堕胎の話にしても、女の人が望まない交接でできた子でも生まなきゃいけないのかって尋ねても、大神官様は命は命だとおっしゃるだけで、平行線でどうにもなりゃしないんですよね」

 実のところ、わたしは話の内容より「交接」という神殿用語を使う彼の物言いに面白みを感じた。今この場でそんなことに意識が及ぶとはろくでもないと思ったが、わたしは結婚しないし娼婦以外を相手にしないと決めてしまっている。われながら歪だと思うが、女とは、それ以上のものではない。
 ジャンはかつて、貴族の娘と結婚寸前の仲になったことがあるそうだ。その約束が破棄されて自棄をおこし神官資格を剥奪されて帝都を追われたという噂だが、今回のはなしを聞くかぎり、それで女嫌いになったわけでもないようだ。懲りないというのか、奇特というべきか判じかねるが、畢竟やさしいのだろう。

「その件も含め、色んなことが俺にはわからないと申し上げたら、それ以上は自分で考えろっていわれたんで、自分で考えてます」

 わたしが息をのんだことに、ジャンは気づかなかった。そして、手綱をひっぱって大股に歩き出した。
 彼が教義に外れた異端というべき思想を持つことについて、大神官から許可を得ているのみならず、それを勧められているとはどう考えても極めて異例の出来事だ。とはいっても、本人はそのことに頓着していないようなので口にするのをやめた。
 わたしには、あの老獪な商人上がりの大神官が、わが主君ルネさまにこの若者を預けたのが深謀遠慮の故と思えた。それさえわかれば、それでいいのだ。

「俺、今すぐじゃなくていいから、あの方から話を聞かせてもらいたいと思うんだけど、違う神をまつってるわけだし、それはやっぱり難しいかなと……」
「そうだね。まずもって身分が違う。この場合の身分は宗教的なそれだけど、いずれにせよ君が偉くならないと、発言の場は与えられないよ」
「そのくらいのことは、わかってますよ」

 ジャンの声が少し尖ったが、落胆も感じられた。わたしは未来ある青年の希望を挫いたことで些かの自己嫌悪をおぼえたが、先ほどのそれよりは後味が悪くなかった。現状認識が大事だということを、彼はよく理解している。お節介にすぎる発言だっただろう。

「アンリさん、ということで、神官様にはこの件は内緒にしてください。俺の独断でやってることなんで。何かあったらあの神殿にとってヤバイでしょ」
「わたしが、ルネさまの失態につながるかもしれない秘密を見過ごすと思ってるのかな?」
「それを言うなら、あなたが娼婦を買ってるのは、戦のための情報収集と風聞を流すためだってばらしますよ?」

 その脅迫にはまるで威力がなかった。ルネさまは疾うにそれを知っていらっしゃる。実は、それとなく釘をさされたこともある。先鋭的に動きすぎるなという意味だった。 

「われらが神官であるルネさまを見くびってもらっては困るな。それほどあの方には器量がないか?」
「そうじゃなくって」
「迷惑をかけたくないだなんて言い訳は、一人前になってから口にするといい。わたしは君に何を言われても平気だ。自分の身の処し方くらい知ってるからね」

 痛烈な反駁がくるものと思ったのに、彼は口をつぐんでうなだれた。それから。

「……わかりました。自分で、神官様に報告します」
「いやに素直だね?」
「そうですか? まっとうに考えただけのことですよ。破門も見据えて、考えます」

 ジャンは言葉通りに、真剣に己を見つめていた。
 捻くれ者。自らそう名乗ったこともある若者は、今では太陽神殿の教義そのものにまで視野に入れて物事を問い詰めているようだ。


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空が青いと君がいった日 2

空が青いと君がいった日


 ジャンがいったい何故、そんなところに女を連れて行くのか判じかねた。彼に限ってそんな事はないと思う一方、なにか揉め事になるのではないかとも考えた。彼がちょくせつ関係していないにしても、穏健なはなしには成り得ない。いざとなれば仲裁に入らなければならないかもしれず、わたしは足音をしのばせて人通りの少ない道を歩いた。
 はたして、待ち合わせでもしてあったのか、門のすぐそばには白いヴェールをかぶったほっそりとした貴婦人が立っていた。わたしは彼女に見覚えがあった。背中をむけたままのジャンはこちらに気がつかないでいたが、そのご婦人が視線を寄越したため、彼は振り返ろうとした。
 おそらく、わたしは酷く慌てた顔をしたのだろう。
 その女性はすぐさまジャンの名前を呼んだ。彼は弾かれたように背をのばして向き直った。つづいて驢馬から女性をおろし、その手をとってヴェールの婦人にわたし、それから深く頭をさげた。会話らしいものは何もなく、それでも滞りなく一連の手続きが終了したことがわかった。
 わたしは古神殿の壁に背をついて、ジャンが通りすぎるのを待った。
 ジャンはとぼとぼと歩いてきてわたしの前に立ち、挨拶も何もなく問うた。

「つけてたんですか?」
「ああ、すまない。悪かったと思う」
「あなたに素直に謝られると、やりづらいじゃないですか」

 わたしは苦笑のままで相手の仏頂面にきいてみた。

「遊びの付けを払わされたという様子でもないが?」
「違いますよ」
「言えないか?」
「何を」
「関係を」
「太陽神殿の信者です。ただし、うちの神殿じゃあ話せないことも、出来ないこともある。それ以上は、あなたも質問しないでしょう?」
「まあね。わたしには関係ない」

 ジャンはふうっと息を吐いて顔をあげ、わたしの冷淡さを詰るふうもなく漏らした。

「関係ないって便利なことばですよね」
「そうだね。わたしもそう思う。そのかわり、自分に関係あると思えばほうってはおかないよ」
「例えば何を?」
「君が、なにか事件に巻き込まれていないか心配したのだといったら、信じるかな?」

 ジャンが濃い眉をしかめてみせた。

「アンリさん、あなたのはただの好奇心でしょう」
「おや、見破られたね」
「からかうのはよしてくださいよ」
「からかってはいないよ。あの女性は縁を切られそうな誰かの愛人かな?」
「それ、なんであなたに教えないとならないんですか」

 真意を探るように用心深く睨みつける若者は、わたしとは違って無垢に見えた。

「次も泣きつかれるようなら、退けたほうがいい」
「どうして」
「女というのはそうやって同情をひいて、条件のいい男に鞍替えしたいと思うものだ」
「怪我して弱ってるひとに、よくもそんな酷いこと言えますね」
「わたしのいうのは一般論だ」
「一般論! 彼女のことを何一つ知らないくせにっ」
「君らしくもない。頭を冷やせと言っているだけだ。それに、何も知らなくても言えることはある。男女のことは他人にははかりがたいと、君は十二分に承知しているはずだ」
「……わかってます」
「頭でわかっているのと現実にできるのは違う。君はけっきょく古神殿にあの女性を引き渡しただけで、なんの仕事もしていない。断っておくが、わたしは傷ついた女性を手助けすることが悪いとは言っていない。君のことだからわたしの非番を見計らい、きちんと朝の作務を終えて出てきたのだろうが、困っている女性誰も彼もにそうやって手をさしのべては、君の身動きがとれなくなる。悪くすれば、なし崩しに女につけこまれるぞ」

 そこまでは神妙な顔をしてきいていた彼が、最後の一言で声をあげた。

「ご忠告いたみいりますが、俺は、誰かにつけこまれる隙があるくらいで、人間ちょうどいいと思ってるんですよ」
「ジャン?」

 わたしはその言葉を意外に思って相手の顔を見つめ返した。

「あなたを見てると、帝都学士院や太陽神殿で上に行くやつらのことを思い出す。でもね、いっときますが、そいつらは本当の天辺にはけっして上れないんですよ。自分のことばっかりで懐が小さいから、ひとがついてこないんです」
「それは、苦言かい?」
「いえ、嫌味です」

 わたしは声をあげて笑った。
 ジャンも、呆れた顔で小さく喉をならした。
 驢馬が、何がおかしいのかというように頭をこちらに回して欠伸をした。

「アンリさん、あの方を知ってるんですか?」
「あの方って?」


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空が青いと君がいった日 1

空が青いと君がいった日


 世は並べて事もなし。
 娼婦と寝た朝に思うのは、そんなことだ。
 わたしに背をむけて軽い鼾をかく女は、モーリア王国から来たという。かなりの売れっ妓らしく顔も身体も悪くなかったが、いささか喋りすぎたし化粧が濃い。
 神殿に戻るまえに湯をつかわなければ、この匂いでエミールに嫌われる。
 いちど、脂粉塗れで朝帰りしたのを見咎められて以来、わたしは身を整えて太陽神殿に戻るよう気をつけていた。あの女の子みたいに可愛らしい顔が嫌悪感にゆがむのを目にすると、少々倒錯的な興奮をおぼえないでもないが、本格的に軽蔑されるのは避けたいものだ。
 わたしが作男として席を置く太陽神殿の面々は、女遊びにうつつを抜かすことは決してない。神官にしてわたしの主君のルネさまは、娼婦買いなどしたこともない清廉潔白な騎士であるし、ニコラは長年連れ添った恋女房に死なれて以来、そちら方面はめっきりご無沙汰らしい。15歳と若いエミールはきっと童貞で、作男のジャンは……わからない。
 彼とは、女の話などしない。
 いや、あの狭く小さな神殿のなかでわたしたちは共通の話題をもたないように工夫してきた。隔たりのわけは階級差にもあったろうが、本質的には我の強いもの同士であるからだろう。だからこそ、意見が表立ってぶつからぬよう互いを牽制し、自身を抑止し、うまく立ち回ってきたはずだ――つい、先日までは。
 ジャンが遂に、上級試験を受けるといいだした。
 ルネさまは穏やかに微笑まれ、その肩を抱いて祝福した。ニコラは、不器用なやつだなあと笑った。彼には、ジャンが遠回りしているように感じたのだろう。神官見習いのエミールは先を越されると慌てるかと思ったのに、笑顔で手を叩いていた。子供だとばかり思っていたが、落ち着いていた。
 なるほど、ひとはきちんと成長するものだ。わたし以外の人間は。  
 そんなことを思いながら娼館の外に出たせいか、驢馬をひいたジャンの姿が目にはいる。あいかわらず縦ばかり伸びて幅がない。きちんと食べさせているつもりだが、いっこうに太らない。あれでは女一人抱えあげられないと心配になるが、彼には余計な世話に違いない。それにしても、買い物ならば露店の並ぶ橋のほうへいくはずが、こんなところをうろついているのはおかしかった。それに、ただ伸びるに任せた褐色の髪を束ねた頭はいつもどおりだが、身につけているのは汚れっぱなしの野良着ではなく水色の紋織りでできたよそ行き用の短衣だ。
 エリゼの都はかつてひとときなりとも皇帝の住まいがおかれたので、街の中央には立派な石畳がしかれている。しかしながら、娼館の立ち並ぶ町外れのこのあたりはぬかるみが多く、運が悪ければ汚物を踏むような有様だ。折り重なるように立つ家々が昇ったばかりの朝日さえ遮り、薄暗い。エリゼ公国の都市民として未だ認められないひとびとが住む場所なので当然だが、治安も悪い。家々からは煮焚きの匂いだけでなく、なにかわからない異臭さえ漂っていた。 
 そんな場所で周囲を見渡す彼の後ろ姿は、迷子の子供のようだった。あんなふうでは物盗りにでも狙われかねない。らしくないとはこの事だ。わたしは気づかれないように後を追った。
 しばらく歩くとジャンは三階建ての建物の前で足をとめ、驢馬をそこにつなぎ、なんどか大きく深呼吸してから中へと入っていった。娼館ではないが、商人の家でもない。独居者たちが住まう集合住宅だ。知人でもいるのだろうかと考えて、ジャンがこの都の出身者ではないと思い至る。
 角に隠れ崩れ落ちそうな屋根を見あげていると、ジャンは妙齢の婦人の手をひいて戻ってきた。亜麻色の髪にぱっちりとした青い瞳となかなかの器量よしだが顔色が悪く、唇のはしが切れている。胸を深く刳った衣服は堅気の婦人には見えず、娼婦ではないにせよ誰かの囲い者かと思われた。真面目なジャン青年には縁がない女であることは間違いない。ところが彼はその女性を驢馬に乗せて手綱をつかみ、ゆっくりとした歩調で歩みだした。
 逡巡したが、好奇心には勝てなかった。
 ジャンは今年19歳と、わたしより10ほど年が下だ。
 彼はエリゼ公国の南の農村地帯から、領主の支援があって帝都にのぼり、再びこの国に戻ってきた。本人は水呑百姓の息子のようなことを口にするが、わたしが調べたところ、郷士の家の生まれだった。むろん、彼の言葉の半分は嘘でなく、先代までの富貴は黒死病のために脆くも費え、何もかもを失い一家離散の危機に陥ったのは事実でもあった。
 彼を帝都へ送り出した伯爵は、帝都やレント共和国に幅広い交友関係を持っていた。そのためか、跡取り娘にレント共和国で二番手と目される貴族の家から婿をとった。
 公国離れ著しいと受け取るものがあってもおかしくない。
 ジャンが、いったいどのような役目であの小さな太陽神殿にいるのか、わたしにはわからなかった。帝都の大神官の秘書室からこんな田舎に送り戻されたのが、ただ彼の不始末のせいだけとは思えない。
 わたしが後をつけたのは、彼の身を案じただけでなくそうした理由もあった。娼婦や愛人を秘密の連絡係にする者もいないではない。
 ところが、ジャンはときどき驢馬のうえの女性に一言二言はなしかけるだけで、何処かへ誘導されているわけではないようだ。察するに、乗り心地が悪くないか怪我の具合はどうだのと尋ねているに違いない。彼らには男女の間の親しみはうかがえず、もちろん陰謀めいた関係も見えず、わたしは次第に後ろめたさをおぼえはじめた。
 行く先の、見当がついたのだ。
 完全に日が昇った街は、物売りたちの騒がしい声に埋もれていた。今日は男湯の日らしく、呼び声がかかると走り出す子供たちもいた。露店がずらりと並ぶ通りには、店先に売り物を並べる手もとめず、おしゃべりに興じる女たちの姿もあった。彼女たちはわたしが横を通りすぎるときだけは口も手もとめて、こちらを流し見た。顔から胸、腰から脚と追いすがられながら、わたしはジャンと驢馬の姿を見失わないように注視した。

「アンリさん、今日はなにが要りようですかい?」

 馴染みの肉屋に肩をたたかれそうになったのをひらりと避け、今は話しかけるなと目顔で制し、腹を割って吊るされた牛の横をすりぬける。新調したばかりの服を血肉で汚すのは御免だが、すでにして靴は泥と腐肉にまみれたようだ。仕方がない。
 地面から顔をあげると、ジャンが後ろを振り返った。この距離だ。わたしに気がついた風はないが、もしも気がついたなら、後で尾行者を振り返るのは危険だと教えてやらねばなるまい。
 それにしても、どうせ見つかったのだとしたら、足を戻して肉屋のロベールにあの腐りかけ寸前の豚肉は揚げ物にして使うから取っておけと言えばよかった。あとで戻ったのでは主婦たちに買われてしまうだろう。そんなふうについ貧乏根性が顔をだしたが、いまはジャンのほうが大事だ。
 喧騒が遠ざかると、自分の勘があたったことで、今度はべつの不安がもたげてきた。何故なら彼がその女性を送り届けたのは、あろうことか《死の女神》を奉る古神殿の裏手だったからだ。
 古神殿の裏――それは、堕胎する女性が訪れる場所だった。

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風に舞う蝶 3

風に舞う蝶 


 ここまで話してきて、アンリさんは顎に手をあてて考えこむような顔をして、問題の石を指差しました。

「その石って、これのことだよね?」
「そうです」
「元に戻ってる……?」

 僕は、深くうなずいてから口にしました。

「ジャンは始めから、次の見回りのときには元の場所にあるはずだから心配するなと言ってくれていたのです」
「ああ、そうなんだ。じゃあその通りになってよかったね」

 そう言ったアンリさんは僕の顔を見て首をかしげました。

「あれ? エミールは、あんまり嬉しそうじゃないね」
「僕も安心して喜びたいのですが、ジャンが、その次にはたぶんまた移動されてると思うからって、あのしれっとした調子で言うんですよ!」
「あ~、それ、きっと当たってるねえ」

 アンリさんには思い当たる節でもあるのか、いったん顎をひいて瞼を伏せ、それから肩を揺らして笑いはじめました。

「やっぱり、当たってますか?」
「学がなくとも農民たちだって賢くしたたかさ。この世の中、誰しも馬鹿じゃ生きていけないよね。根負けしたほうが損するって話だよね」
「きちんと交わした契約を破るのが、強かですまされることですか?」
「ジャンは何て?」
「え」
「ジャンは農民出だろう? 彼は、何ていってたのかな?」

 先ほどと同じ質問に、考えこみました。いえ、こたえはわかっていたのですが、僕はそれを言いたくなかったのです。そして、言いたくなかったのは、彼のことを認めたくなかった気持ちと一緒です。

「ジャンは……、農民たちは貧しいんだから、そのくらいのズルは認めて許してやらなきゃって。こっちが尊敬できる仕事をしたら、彼らのほうからすすんで手伝いに来るし邪魔もしなくなるって……」
「至極立派な正論だねえ」

 アンリさんの口許に笑みが浮かんでいます。正直にいうと、僕だってそう思いました。立派すぎるくらいの言葉です。
でも、現実的には農民たちはこちらが武力行使に訴えないとみて、のらりくらりと所領地を掠め取ろうと算段しているのです。厳しく処断しなくともいいから、いえ、こちらのほうに権力があるからこそ、そのようなことに及ぶ前に石壁を築いてしまえばそれですむ話だと僕には思えました。

「ですが、こんなこと、この先ずっと続けていくなんて僕には時間と労力の無駄にしか思えないんですけど……」
「だから囲ってしまえっていうのがエミールの意見だとはわかる。実際、この国でも特別に良い葡萄が取れる畑はみなそうなっているしね。わたしもそんなふうに思うこともあるけど、まあ、そうしてしまったら、ジャンの思わぬ一面なんて見られなかったからいいんじゃない?」
「アンリさん?」

 僕が目を見開くと、アンリさんはにこりと微笑みました。

「エミールは、ほんとはジャンを尊敬したいんだね?」
「それは……その、誰のことも、尊敬できればいいじゃないですか」
「ん~、わたしはそんなふうに思わないけど、そうだったら幸せな世の中だよね。ただ、身近な誰かを尊敬したいと思うことと、誰も彼もを尊敬したいと願うことはまったく意味の違うことだよね」

 アンリさんは額にかかる淡い金髪を指ではらい、こちらを向いて続けました。

「それは別にして、この神殿のことは、エミールとジャンで話し合っていったらいいと思うよ? 二人とも、若くて賢くて情熱があって、何でもやれそうじゃない?」
「アンリさま、そんな」
「わかってると思うけど、ルネさまが神殿を出たら、わたしもニコラもついていく」

 今までにもそのことは考えてきましたが、こんなふうに面と向かって言い渡されることになるとは思ってもみませんでした。

「そんな……僕たち二人でなんて、無理です」
「無理でも何でもやらなきゃ」

 アンリさんが綺麗な顔で微笑みました。それから、呆然としていた僕を見て、まあ、まだもうちょっと先のことだよと、安心させるように言いました。それを聞いて、ようやく僕の肩が落ちました。すると、アンリさんが遠くを見るようにして、呟きました。

「二人は滅多にないくらい、いい組み合わせだと思ってるんだけどねえ」

 その、小さな囁き声は、春風にさらわれていきました。
 僕はそれを、胸にとどめることをやめました。捕まえて頼りにするには、ジャンのことが、僕にはまだ、よくわからなかったからです――皮肉屋でひとを小馬鹿にしてばかりいるジャンが、僕などよりほんとうはずっと優しいということも、我慢強いということも、どんなにか信仰に篤いということも、僕にはまだ、ちっともわかっていなかったのです。
 もちろん、アンリさんに言われなくても、ジャンが賢明だとは知っていました。それは疑いようもないことでした。それゆえに僕はジャンを羨ましく思っていたのですし、才能があるのに努力しない彼に苛立っていたことも事実です。あのころの僕が彼を理解しなかったのは、自分のことだけで手一杯で、彼に負けたくなかったからです。
 そして――アンリさんのその言葉を思い出すのが10年も先のことになるとは、そのときの僕には予想もしないことでした。
 それは、後の戦で知将として讃えられたアンリさんらしい、先見の明のある言葉というより、長い年月寝食をともにしてきた「仲間」の、心からの励ましだったと思います。
 それにしても。
 あの一年は、僕にとって生涯忘れられないものとなりました。
 思い出すだけで喉が引き攣れるような恐ろしいことも、涙が止まらなくなるような悲しいこともたくさんありました。
 僕はこの国を離れましたし、ジャンもあの太陽神殿を出て行きました。
 あの年以来、僕は打ちひしがれて生きていました。何もかもが信じられない気持ちになりましたし、信仰自体を捨てようと思ったことが幾度もありました。
 あんなに愛した太陽神殿そのものを、僕は憎みました。
 むろん、アンリさんのことも。
 けれどその後、僕は色々なことを知りました。僕はあまりにも無知で、ジャンの言うとおり、本当の意味で世間知らずだったのです。
 ジャンが神官見習いだけでなく正式な神官職の資格を持っていたことも、彼が14歳という異例の速さでそれを手にしたことも、そしてまた、ふとした過ちでそれらを失ったことも知りました。
 アンリさんがどうして結婚されなかったのかも、わかりました。庶子であった彼は、同じ身分の女性と結婚することは難しかったのです。
 また、あの事件のからくり、その遠因や顛末も、時間をかけて調べあげることができました。
 それは、あのときの僕たちには本当にどうしようもないことでした。
 今なら、あのときの何もかもが仕方のなかったことだと言えるような気がします。
 そして、ようやく精神的な安寧を得たある日、僕の瞳にあのときの蝶がうつったのです。あの日、目の前を横切っていった蝶が、再び僕の瞳にうつり、あのときの言葉も蘇りました。
 僕は、あの言葉に導かれるように、彼に会いに行ったのです。
 アンリさんの言葉を思い出したおかげで、今の僕があり、ジャンの今があります。 

 いま、僕たちはこの国で共に太陽神殿の聖なる炎を見守っています。
 まことに頼りない小さな炎ではありますが、そのかわり、ひとびとのすぐそばにあり、掌をあたためることの出来る炎だと思っています。
 あの日、何でもやれると励ましてくれたアンリさんの言葉を信じて、ジャンと共に羽ばたいていきたいと願っています。



 終

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風に舞う蝶 2

風に舞う蝶 


 一月ほど前の、見回りのときのことでした。
 西側の一角の石が動かされていて、それを農民たちに抗議したとき、ジャンは彼らのはなしを聞いただけですましてしまいました。僕が口を挟もうとすると、お前は引っ込んでろといって後ろに押しやるのです。
 ジャンは、同じことの繰り返しや行き当たりばったりで要領を得ず、まったく整合性のない農民たちの言い訳を、一言も漏らさず耳に入れていたようです。僕は嘘をつく人間が大嫌いなので実は途中で苛々してしまったのですが、ジャンがその場を動かないものですから、黙って彼の後ろに立っていました。
 はじめは僕たちが年若く物慣れないと見て、盛んにまくしたてていた彼らですが、はなしを聞き遂げようとするジャンの態度に、次第に落ちつかなげに瞳を泳がせ、唇を舐めたり、いつ洗ったのかもわからない垢じみた服の裾をつかんだりしだしました。五人一斉に話していた彼らがついには黙り込んでしまったのは、自分たちが事を偽っていると認めたのでしょう。僕は、ジャンがそこでいつものように舌鋒鋭く反論するものと思ったのです。
 ところが、彼は勢いの弱まった農民たち一人一人に労いの言葉をかけ、僕の腕をつかんでそこを後にしたのです。
 吃驚して声も出ないとはこのことでした。
 いつもは一番年長のニコラさんにだって食ってかかるのに、あんな農民たちの戯言に一言も返さず背中を向けるなんて、まったくもって彼らしくありません。
 帰り道、僕は太陽神殿としてはあんな嘘を認められないと口にしました。するとジャンは、お前、ちっとも優しくないなあと言ったのです。
 誓っていいますが、僕はただ、農民たちの不正な行いに腹を立てただけです。彼らの窮乏については同情しています。
 そういう自分の気持ちを説明しようとしたところ、ジャンは今日のことは神官様には言うんじゃないぞ、今のあの方はそれどころじゃないんだから、と念を押してきました。それにはしぶしぶ頷きました。僕もジャンも、神官さまの恋を応援する仲間であることにはかわりありません。
 とはいえ僕は、石がずらされていたことが気になって仕方ありませんでした。
 次の見回りの時にはわかってしまうことですし、あのままにしておいて職務や報告を怠ったとみなされるのも我慢できません。といって、ジャンに事の次第を任せてしまったくせに、僕と同じ神官見習いのニコラさんにこっそりと影で相談するのも気が引けました。
 それに、あの時、ジャンに言われたとおりに引っ込んでしまった自分がとても情けく感じました。相手が怖かったわけではありませんが、僕たちは無腰でしたしあちらは大人数でそのうえ鍬へ鋤を持っていました。僕のなかには面倒を厭う怠惰な気持ちがあったことは否めません。そして、ジャンはどうするつもりなのか、まったく見当がつきませんでした。彼が僕に一方的に責任を押し付けるとは思いませんでしたが、何しろ役職は僕のほうが上なのです。責めを負わずにすむとは考えられません。
 一晩は我慢できましたが、二晩目は寝付けませんでした。
 三日目の夜のこと、僕は寝床から起き出しました。
 夜間の外出などしたことはありません。ですが、日の出から日の入りはしなければならないことが目白押しです。神官さまのご予定をみなで振り分けているのと、自分自身の神官職試験のために時間が自由になりません。
 僕は、禁を破って外に出ると決めました。
 街の門は閉ざされていますが、神殿横の小川の岸壁に沿った秘密の抜け道を通れば外に出られると知っています。
 僕は隣の宿坊で寝ているジャンを起こさないよう、気をつけて身支度を整えたつもりでした。それなのに、彼は扉の外に腕を組んで立っていたのです。

「エミール、お前、どこに行くつもりだよ?」
「どこって……ジャンのほうこそ」

 見れば、彼も寝巻き姿というわけではありませんでした。

「俺はお前が寝返りばっかうってうるさいから起きちまっただけだよ」
「それは、ごめんなさい。悪かったと思います。でも」
「でもじゃないだろっ。お前、こんな夜中に外に出るなんてどんな了見だよ? 野伏や狼に襲われるぞ」
「野伏はともかく、今年は狼の被害は出ていません。剣は持っていきます」
「つうかお前、夜間外出なんてそもそもが規則違反だろ」
「それはこちらの言い分です」

 僕の言葉に、ジャンは尖った肩をすくめて笑いました。また馬鹿にされるかと用心して彼の顔を見あげると、ジャンはゆるゆると首をふって下をむきました。

「ジャン?」
「俺も気が小せえほうだが、あんなくらいで、お前も意外にそうだよなあ」
「なっ、そんなこと……」

 ありませんと言いたかったのですが、それはあまりに強がりです。とはいえここで認めるのも癪に障るので、肩をそびやかして言い返しました。

「失敬な。気が小さいのではなく、職務に忠実なだけです」
「そりゃあ詭弁ってやつじゃねえか?」
「ジャンのほうこそ」

 そのとき、式服姿の神官さまが現れたのです。

「こんな夜中に騒ぎとは、何があったのですか?」

 僕たちは二人して飛び上がるほど驚いて、固まってしまいました。神官さまは、ジャンが申し訳ありませんと言ったあと唇を引き結んだままなのを見て眉を顰め、今度は僕のほうへと顔を向けられました。

「エミール、剣など下げて、どうするつもりだったのですか?」

 穏やかな声でありながら、神官さまが怒っていることは間違いありませんでした。みぞおちのあたりに氷を投げ込まれたように身体が冷え、質問にこたえようにも唇が震えていました。
 就寝の時間に起きていることを叱られたのなら、こんな気持ちにはならなかったでしょう。神官さまは剣を遠ざけておくことこそが、民人のこころを安んじると説いておられました。《死の女神》の神殿騎士たちが堂々と長剣を佩いて歩く姿は颯爽としていますが、威圧的だと感じるひとが多いのは事実です。僕自身、そんなふうに思っていたはずなのに、こんなものを持ち出してしまったのです。

「神官様、俺が、エミールに剣を見せてもらいたいと言っただけです」

 ジャンの声に振り返った神官さまは、頭痛でもおこされたかのように端正なお顔をしかめられました。

「ジャン、そなたは剣を嫌っていたはずだが」
「嫌いだからこそ、どんなものか知りたかったのです。ともかく、騒ぎを起こしたのは俺ですから」
「……私には、これがそういった話には見えないのだが?」

 神官さまの口許に苦笑が浮かんでいるのがわかりました。ジャンもそれに気づいているようでしたが、それ以上何かを言い募ることはありませんでした。
 神官さまは、仕方ないですねと呟いて、ふたりとも罰として明日は一日写字室で勉強なさいと言いました。食事が抜かれるので罰といえば罰かもしれませんが、上級試験を受けようと思っている僕たちにとって、他の作務を免除されるのは応援以外のなにものでもありません。
 おそるおそる顔をあげた僕の肩を、神官さまの大きく温かな手がそっとくるみました。

「エミール、そんなものは置いてやすみなさい。ジャンも、昼間の作務で疲れているのだから眠りなさい」

 僕は、恥ずかしさに俯きました。だからジャンがどんな顔をしているのかも、見ることができませんでした。

 次の日は二人ともずっと無言のうちにすごしました。静謐を保たねばならない場所なので当然ですが、視線が合うこともありませんでした。
 僕は、一方的に庇われたことに腹をたてていましたが、それを口にするのも申し訳ないとも感じました。よくよく考えれば彼は僕と一緒に外出する気でいたのです。彼自身も気にかけていたのでしょうが、たぶん、僕が石のことを気に病んでいるのを心配してくれたのだと思います。

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風に舞う蝶 1

風に舞う蝶 


 あの蝶を、初めて見たのは「見回り」の日のことでした。
 見回りとは、太陽神殿の葡萄畑が他の所領地とちゃんと区別されているかどうか確認する作業です。そのころの僕は、エリゼ公国の都にたったひとつだけの太陽神殿に「神官見習い」として勤めていました。
 都の東側の突端にあるとても小さな太陽神殿には、僕たちの主にして神官職であられるルネ・ド・ヴジョー伯爵、神官見習いのニコラさん、作男のアンリさん、作男なのにやたら教義や式典に詳しいジャン、そして僕エミールがいたのです。
 「見回り」が始まったのは、その神殿で寝起きするようになって3年ほどたった年のことです。その年から新たに増えた葡萄畑は、公都の門の外、東の丘の斜面にありました。増えたといいましても、正確にいえば、神官さまが買い上げて神殿に寄進したものです。葡萄酒販売で巨額の富を築いておいでの神官さまは、その知識や技術をご自分の司る神殿で試みようとお考えになったとしても不思議ではありません。
 しかしながら、我らが太陽神殿には神官さまも含めて五人しか人手がなく、農作業のほとんどを近隣の農家に依頼することになりました。
 ところが、その農民たちや元の土地所有者である貴族たちが、印しとして置いた石を動かして僕たちの葡萄畑を掠め取ろうとするのです。あんな大きな石をご苦労なことだと思うのですが、あまりに頻繁に動かされてはたまりません。また、畑が騙し取られていたりしたときには断固としてそれを守らなければならず、この「見回り」という仕事は時として武力行使も辞さない覚悟が必要になるのでした。
 もっとも、この見回りにヴジョー伯爵であらせられる神官様が来られれば、たいていの農民や貴族たちは引き下がりました。なにしろこのエリゼ公国では公爵様に次ぐご身分の方ですし、公明正大であることはみなが知っていたからです。
 そういうわけで、僕たちが口で言っても通用しない場合、神官さまにおいで願うことになっているのですが、神官さまご自身はあまり乗り気ではないようなのでした。

 その日は、僕とアンリさんの見回り当番の日でした。
 そのころの僕が誰といちばん仲が良かったかというと、アンリさんでした。彼は事実上、太陽神殿を取り仕切っていました。帳簿をつけたり祭具を買ったりという細かなことは、みなアンリさんが引き受けていたのです。彼は、立派な騎士身分でありながら一切の教義を学ぶことなく作男を務めていました。当時の僕はそのあたりの理由がよくわかっておらず、それを不思議がるだけで、また帝都帰りらしく知的で洗練されたアンリさんの話を聞くのが好きでまとわりついていたのでした。
 神官さまは大層お優しい方ではありましたが、やはりご身分の上でも職務の上でも近寄りがたく思いました。僕は子爵家の長男であったのですが、この国で、エリゼ公爵家より立派だと噂される伯爵さまには、格別な畏敬の念をおぼえました。
 また、同じく神官見習いのニコラさんはというと、中背ながら筋骨隆々として逞しく、神官見習いの身分を示す杖よりも戦斧のほうがお似合いの人物でした。その雑駁で大らかな気性に接すると気が晴れましたが、一方で、ぎょろりと大きな青灰色の瞳には、ときにぞっとするほど冷徹な光が宿ることがありました。彼が若いころ、戦場で悪鬼のような働きをみせたと神官さまが語ることばに、僕は奇妙に納得した覚えがあります。
 それから、僕と五才しか違わないジャンですが、彼は、僕をからかってばかりいました。かと思うと面倒見のいいところもあって、僕が慣れない薪割りなどでもたもたしていると、いつの間にかそばに来て、鈍臭いとかこんな事も出来ないのかなどと文句をいいながらも手伝ってくれました。ところが、それでこちらが苛められないものと安堵していると、ちょっとしたことですぐ突っかかってきて、僕のことばの端々をとりあげて嫌味をいい、不見識を窘めたりするのです。僕はそのたびに面白くない気分にもなりましたが、よくよく考えてみると彼のいうことには理のあることも多く、示唆に富んでいました。しかしながら、物には言いようというのがありますし、彼のように頭から相手を馬鹿にするような口調では、たとえ彼の話す中身が正しくても通じません。僕はなんどかそのことをジャンに言ってみたことがあるのですが、ジャンはとりあってくれませんでした。
 たしか彼は、その以前の見回りのときも、囲い壁を作ったほうがいいという僕の意見を退けました。お前は世間のことがなんもわかってないと繰り返すだけで、こちらの言い分を聞かないのです。
 そのせいであんなことに巻き込まれたという不満が、僕の胸のうちに燻っていたのでしょう。

「だったら囲ってしまえばいいのに」
「エミール?」

 ふと漏らしたつぶやきを聞きとがめたのか、一緒に回っていたアンリさんが首をかしげてこちらを見ました。僕は思わず顔を赤くして、なんでもないとお伝えしようとしたのですが、

「たぶん、ルネさまには囲い壁をつくるお気持ちはないと思うよ」

 そう、片頬で笑ってこたえられてしまったのです。
 僕が口を開きかけると、少し休もうか、とアンリさんが木陰を指差しました。黙ってその後ろをついていく以外、僕にできることはありません。
 楢の木陰に並んで腰をおろし、僕は革袋にはいった葡萄酒に口をつけました。仰のいて見えた空は青く、白い雲がなだらかな丘に影を落としながら、ゆったりと流れています。春の陽をあびて二羽の雲雀が舞い上がり、その囀りが歓びの声を高らかに歌い上げているようです。
 以前より葉が大きくなった葡萄畑に視線をもどすと、目の前をひらひらした赤いものが横切りました。火の粉のように目立つ蝶が、戯れながら風に流されていったようです。祭壇の炎に似た姿に胸が高鳴り、もっと近寄って見たかったのですが、ひとり立ち上がって後を追うのは子供っぽいように思ったのでやめました。

「このまま昼寝でもしたいような陽気だね」

 同じように蝶の行方を眺めていたアンリさんが、長い両腕をふりあげて伸びをしました。神官見習いである僕には許されませんが、作男という身分の彼なら大丈夫です。
 アンリさんの年齢は、神官さまより一つ若い29歳と聞いていますが、ご結婚はされていません。どうして結婚されないのか何気なくお尋ねしたところ、わたしの妻になるような奇特な女性はいないとこたえられました。
 そんな不躾なことをお伺いしたのかは、理由があります。
 アンリさんは、娼婦を買うのです。
 神官見習いでも神官職でもないのですから、誰にも咎め立てできるものではないのですが、やはり不道徳な行いだと非難するむきもあります。僕も、納得できませんでした。
 アンリさんはご自分を花から花へと渡り歩く蝶だと笑われましたが、身を慎まれたほうがいいとは申し上げられませんが、ご身分に相応しいご令嬢を娶ったほうがいいのではないかと思ったのです。 
 それに、ひとを外見で判断してはいけないとは思いますが、いわゆる「恋愛」というものに有効な力を発すると思われる容姿についても、アンリさんは不足がありません。婦女子に間違えられるような貧相な体つきの僕と違い、神官様の隣に立っても見劣りしない長身ですし、くせのない金髪を短くされているのもさっぱりとしたご気性にあいますし、お顔立ちも端正ですから女性に好かれる方ではないかと想像するのです。僕はあまり身体を動かすことが得手ではないので真偽のほどはわかりませんが、ニコラさんいわく、アンリさんは武術にも秀でているようです。
 女性がほうっておかないと思うのは、僕がジャンのいうように、世間知らずで頭でっかちな本の虫だからでしょうか?
 そんなことを考えていた僕の横で、アンリさんがつぶやきました。 

「ルネさまは、わたしたちと土地の所有者がなんだかんだとやり取りするほうがいいと思ってる」
「でも、面倒ではないですか?」
「そのメンドウこそが、太陽神殿の置かれた立場に相応しいってことなんだろうね。わたしたちはこの国では圧倒的な少数派だから」
「だからこそ、いたずらに問題となるようなことをしないほうが、周囲のひとびとと軋轢を生まずに受け入れられると思うのですが……」

 彼らがたびたび石を動かすのは、元は自分たちの持ち物であったという気持ちが根にあるのだと想像できました。
 僕の反論に、アンリさんはそうだねと頷いてから首をかたむけて尋ねました。

「ジャンは、なんて言ってるのかな?」
「ジャンですか?」
「このあいだは二人で組になって見回ったんだよね? 何も言ってなかった?」

 あのときのことは、正直思い出したくありませんでした。いえ、思い出したくないのは自分の至らなさです。ほんとうは誰かに、できればこの翡翠色の眼をした優しいひとに、聞いてもらいたかったのでしょう。

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この胸の炎 2 

この胸の炎 


 さしもの俺もその言い振りにはとさかにきて反抗した。

「俺だって、神官様がこの国のお姫様と結婚できたらいいと思ってますよ」
「そう。できたらいい、それがおまえの本心だ。おまえの心配はこの神殿がどうなるかで、またはこの国がどうなるかだ」
「なっ、だ、だってそりゃ」
「勘違いするな。おれはそれを責めてるんじゃないさ。上つ方の立場は庶民と違うことくらい、おれもよく知っている。だが、それはあの方の人生を自分たちの平和のために犠牲にしてくれと願っていることだと、一度でも考えたことがあるか?」
「……貴族なら、あたりまえのことじゃないですか」

 俺の不貞腐れたこたえに、ニコラがうなずいた。

「そうだな」
「ニコラ」
「なあジャン、おまえ、本当になんでここにいる」
「なっ、そんなに俺が邪魔ですかっ!?」
「そういうことではないよ」

 ニコラの声はそのままで、血がかああっと耳の後ろにのぼるのを感じた。

「おまえが苛々してるのは、この国の先の状況が読めないからじゃなくて、伯爵様の恋の行方が気になるからでもなくて、おまえ自身の問題だと思うぞ」
「……誰だって、そうじゃないんですか? そんな、広い視野で、目的もって、高い志で、そんなふうに生きてる人間ばっかじゃないでしょう」
「それはそうだ。だがな、おまえは、おまえ自身がどうなのかは、おまえしか、決められないんだよ。おまえがどうなりたいかは、おまえにしかわからない。
 おれが決めてやれればいいが、そういうわけにはいかないんだ。わかるか?」

 それは、わからなくはなかった。
 俺がイライラしているのは、自分の将来がわからないからだ。ここで一生暮らしてもいけるが、俺はたぶん、それでは満足できないのだろう。
 俺は、あの村に、小さな神殿を建てたいと思っていたはずだ。
 帝都に送り出してくれた領主様は、お若いころたった一週間、帝都に滞在されたときのことが忘れられず、太陽神殿で歓待された思い出を、羊皮紙に描かれた麗しい絵のように大事にされていた。俺は、普段あの方が胸の奥にしまっておいでの宝物を惜しげもなく見せてもらった子供で、あの方の見た、夜闇を明るく照らす炎の揺らめきを胸のうちに燈していたはずだ。
 だが、俺はあの方が何よりも大切にされた炎を蔑ろにした。
 そのことを、あの方にどうしても口に出せなかった。
 それに、俺をふった女は、こちらの野心に気がついていた。貴族に生まれたのに、17歳になってもまだ結婚の見込みのたたなかった娘の焦りに、俺はつけこんだ。
 直前になって断ってきたあの娘の判断は、正しかったとしかいいようがない……。
 薄情なもので、もう、あの女の顔も忘れていた。そんな相手のことを許すも何もない。
 そう、俺は、こずるくて嘘つきな自分を許せなくて、かといって己を心底省みず、ただイライラと、資格試験の勉強中のエミールを茶化したりして日々すごしている。
 そしてニコラは、ずっと黙り通しの俺を、何も言わず見守ってくれていた。
 それに気づき、少なくとも、自分はいい仲間をもったと認めることにした。
 この男に、ここを追い出されるのは御免だ。
 そう思ったとたん、ついと言葉が口をでた。

「資格試験受けなおすよ。あんたを楽にさせる気はないが、甘ったれのエミールに遅れをとるのも何なんでね」
「エミールは甘ったれか?」
「あいつなんて、蝋燭代を気にせずいつでも本が読めて家庭教師付で学んだ子爵のお坊ちゃんじゃねえか。んなの、出来て当たり前ですよ」
「おまえ、ほんと、他人に厳しいなあ」

 ニコラが感心したようにこちらを仰いだ。褒め言葉だと受け取って、俺も笑う。

「俺の知る大神官様もひとに容赦なくて、そのうえ根性ひん曲がってましたよ」
「ま、うちの伯爵様もあれで実は大いに捻くれているところもあるからな。偉くなる人間ってやつはそんなもんだ」

 ふたりして顔を見合わせて、吹き出した。
 エミールが神官資格試験を受けに帝都にのぼると言い出す前に、俺がさきに受かってやる。あいつのことだ、あの白い顔を真っ赤にしてあわてるに違いない。
 いや、もしかすると、そんなことくらい実はお見通しってやつかもしれない。
 あれで、あいつはちゃんとひとのことを気にかける余裕がある。そこが、お貴族様ってやつかもしれんが、意外と器量がでかいんだ。
 ま、本人の前じゃ、口が裂けてもそんなこといわねえけどな。
 神官様のご結婚相手がこの国のお姫様か、それともよその国のお姫様か、そのどちらになるのかわからない。だが、どっちにしろ、神官様がこの神殿を出て行かれることになる準備はしておいて損はない。
 俺は、さっそく図書室に向かうことにした。
 やるとなったら負けるのはナシだ。
 そう思ったら、ひさしぶりに祭壇の炎が見たくなった。だが、いまはエミールが火の守りをしている。瞑想の邪魔をしちゃあ悪いので、それは遠慮した。
 人間に、炎をもたらしてくれた太陽神。
 獣とひとを分ける炎。
 それは、智慧の明かりであり、恐ろしい死の闇からひとを隔て守るものでもある。
 俺たちは、その聖なる炎を守っている。

 いつか、あの炎を故郷の村に持ち帰る。

 俺は、胸の奥で燃えつづける炎の熱に、そっと息を吐いた。
 この熱がある限り、自分は大丈夫だと信じて。


 終

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